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記事No : 3
タイトル GESORTING 149 やさぐれさんこんにちは
投稿日: 2008/02/10(Sun) 21:13:03
投稿者geso

[たまには音楽の話,てほどのこともない]
 ケータイをi-Pod代わりにして,ミニSDに録り込んだ曲を,通勤とかの移動中に聴いている.今時の若者みたい.聴くものが手持ちの歌謡曲ばかりってとこが,アレですが.
 最初は曲を選んで聴いてたけど,今はランダム再生に身を委ね,偶然「いい流れ」になるのを楽しんでる.
 例えば,幻の名盤解放歌集シリーズでは,屋台のおっさん「変な串かつ教室」〜梅宮辰夫「夜は俺のもの」〜江美早苗「恋のロリロリ」〜プティ・マミ「Girl Friend」〜殿様キングス「たそがれ海峡(白鳥の湖)」なんて,どうかと思うような流れが,絶妙な感じだったりして.
 一方で,朝っぱらから安藤昇のドスの利いた怒声や,梅宮辰夫の野太い溜息を立て続けに聴かされるハメになるのは,ヘヴィではある...

○ジム・オルーク講演会(2月2日 横浜国立大学 教育文化ホール)
 第一部はオルークのアコースティック・ギターによるソロ・インプロヴィゼイション.技巧を殆ど感じさせない――下手という意味じゃない――自己表出の対極にある静謐な演奏.自己とギターとの対話を別の自分が観察・調節してる感じ――観念的な表現だけど.往年のピーター・キューザックのレコードを思い出した.
 第二部はホスト役の大里俊晴との対談.オルークの若い頃の話を聞いて――実年齢では多分彼は俺より一回りは下だろうが――1980年代初めから,既にマイナー音楽おたくは世界的にシンクロしてたのかな,と思わせる内容で,興味深かった.ていうか,オルークはキャラ自体が面白い.思い出し笑いの癖は,感染りそう.


[涜書習慣]
○戸川昌子『透明女』(徳間文庫 1981.初版1971)
 山風ばりの奇想エロチック侵略SF.荒唐無稽にして痛快.山本容朗も関口苑生も本作に出て来る「人生は探索である。好奇心を失った人間は、肥った豚でしかない。」という警句がお気に入りのようで,まぁ同感だけど,「好奇心は猫をも殺す」とも言うしなぁ...

×ガブリエル・タルド『模倣の法則』(河出書房新社 2007.原著初版1890)
 個人間の相互作用と群集の行動を共通の原理で説明しようとするタルドの模倣法則は一種の万能理論で,これを使えば社会の出来事は大概説明可能である.
 その点で,彼の理論は,論敵だったデュルケームを,否定するというよりむしろ補完するものであり,タルドがデュルケームに「負けた」のは,結局不運だったというだけのことかも知れない.
 それはともかく,「何でも説明できる」ということが意味するのは,説明しえないものの存在はあらかじめ除外されているということである.
 全てを説明しうると考える者にとって,「全て」は「内部」に在り,「外部」の存在は暗黙裡に否定されているわけ.
 「外部」の存在とそれが生成する可能性を否定する思想は,西欧哲学思想,なかんずく形而上学において伝統的なものだが,それを「存在」の問題から「言語」の問題にすり替えて,見せかけの「内部と外部との闘争」を捏造したのが,ソシュールの言語理論を批判的に継承したデリダ,ラカンらに始まるポストモダニズムだと,俺は勝手に解釈している――間違ってるかも知れないが,気にしない.
 彼らがやったことは,結局フランス語による駄洒落,言葉遊びに過ぎないのだが,本国以外では,日本と米国の一部インテリ連中が学問として真に受け,1970年代末期から1980年代前半にかけて思想ギョーカイでちょこっと流行った.
 日本においては「ネオアカ」ブームだった訳だが,そこで持ち上げられたポストモダニストの中の,ドゥルーズ-ガタリ,ネグリ一派が,フロイト,マルクス,ニーチェのほかに,タルドをネタにしていたことは,今回の訳書を読めば明らかである.
 ドゥルーズもガタリも亡き今,テロリズムやら世界的経済不安やらを前にした恐怖と混迷に乗じて,残党のネグリが復活し,来日までするらしい.
 「帝国」と「マルティチュード」が闘ってマルティチュードが勝利し,新たなグローバル社会を構築するという,マルクスの焼き直しみたいなお伽噺をしに,わざわざやって来るのだろうか.ご苦労様である.
 俺はポストモダン信者じゃないから――近代なんて全然終わってないし――どうでもいいや.

○半村良『どぶどろ』(扶桑社文庫 2001.初版1977)
 著者最初の時代小説.江戸末期の市井の生活を描いた一見バラバラの短編群が,表題作の長編に組み込まれていく仕掛け.宮部みゆき『ぼんくら』は本作へのオマージュであることが分かり,納得.結末は悲痛だが,味わい深い佳作.

○酒見賢一『聖母の部隊』(ハルキ文庫 2000.初版1991)
 これがあの酒見賢一?という意外性に満ちた,今のところ唯一の「SF」短篇集.軽めの短篇3作はともかく,この作者としては唯一「熱い」雰囲気の表題作は,誤解を恐れず言えば,一番ハマる読者はマザコンのSFおたくであろう傑作で,山田正紀のあの作品やあの作品,筒井のあの作品などを想起させる――解説の恩田陸はミスキャストだな.
 山田正紀と言えば,佐藤亜紀が彼のことを「四半世紀前に『神狩り』を読んだ時既に終ってると感じられた作家」と,去年のブログに書いてたのを,最近読んだ.
 確かに「神狩り」は瑕のある作品だと思うが,これ一作だけで終わりと断じられてもねぇ...まぁ,誰が何をどう思おうと勝手だから,俺も佐藤亜紀のことを勝手に「小説書きとしては器用だが人間的には無神経で失敬と感じられた作家」と言っておく.

○赤江瀑『霧ホテル』(講談社 1997)
 甘美で残酷な幻想譚12編.しかし「オール読物」や「問題小説」にこんな品のいい小説を載せてもいいのかしら――名手は常に手を抜かない,ということなんでしょうが.この人の作品はもっと読みたいのに,エンタメ度が低いせいで売れないのか,殆どが絶版.困ったもんだ.

○東陽片岡『やさぐれ煩悩ブルース』(メディア・クライス 2008)
 同じ片岡でも片岡義男とは対極に在る――バイク趣味のみ共通か――ダメダメなフーゾク漫画家.俺は単行本を全部持ってるくらいにはファンである.解説の岩井志麻子が「オゲレツであっても郷愁的」と絶賛するのは,自身の作風との共通性を感じての言だと思うけど,まぁそのとおりである.どうしようもない業や煩悩を全肯定する調子良さ,それに苦笑しつつ自己を観察批判する冷静さが,汚ならしくも愛らしい緻密な絵と結びつく様は,安下宿の二階窓から吐いたゲロに架かる刹那の虹のように美しい.

○松井今朝子『果ての花火』(新潮社 2007)
 「銀座開花」シリーズ2作目の短篇集.明治初期と現代の相似性を描きつつも啓蒙臭が鼻につかず,蘊蓄を語りながらも嫌味を感じさせないのは,上品な職人芸の証.全く文句はないけれど,ちょっと軽い点は物足りない.この作者の小説では,芝居者の狂気を描くヘヴィな長編の方がで好みではある.
 ちなみに,最近の若い小説家たちの作品の多くが薄っぺらで詰まらないのは,実際に現実が薄っぺらになったことの反映ではあろうが,現実に追随したものしか書けないという点において,駄目なのはやはり,小説に精進しない作者の方だと思う.それで良しとする読者も当然駄目なんですが.

2008.02.10 GESO


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