Web Forum
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[記事リスト] [新着記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

記事No : 102
タイトル GESORTING 200 師走の覚書
投稿日: 2013/12/29(Sun) 19:42:13
投稿者geso

●降誕祭の夜こっそり口ずさんだ<酸鼻歌>

 諸人ころびて 向かえません
 久しく待ちにし 主は来ません
 主は来ません 主は、主は来ません

 悪魔と一夜を 現忘れ
 虜となりせば 主は来ません
 主は来ません 主は、主は来ません

 この世の闇路を 照らせません
 妙なる光の 主は来ません
 主は来ません 主は、主は来ません

 萎めるぺにすに 花を咲かせ
 恵みの露置く 主は来ません
 主は来ません 主は、主は来ません

 (以下略.<酸鼻歌>はあかなるむの造語.

○麻耶雄嵩『隻眼の少女』(文藝春秋 2010)
 何よりも<吃驚>したくてミステリを読んできたけれど,擦れてしまった所為か驚くことは滅多になくなってしまった.だから本作は久々に嬉しい驚きだった.
 帯の惹句「古式ゆかしき装束を身にまとい、美少女探偵・御陵みかげ降臨! 究極の謎 究極の名探偵 そしてちょっぴりツンデレ! 云々」にも騙された...そんな甘い作品ではない.
 アンチにもメタにもSFにも叙述トリックにも逸脱せずあくまで新本格の領域に踏み留まりながら次々と予想を裏切るというのはかなりの力業に思えるが,この著者はデビュー時から大胆だったから,さほど不思議でもないか.
 普通の(≒陳腐な)小説に較べれば非常識な設定であるが,本格ミステリはもとより人工美の世界なんだから,<非常識>という言葉は何の非難にもなるまい.

○日垣隆『偽善系』(文春文庫 2003.親本 2000・2001)
 著者の言説は<右>からは<左>と思われ,<左>からは<右>と思われそうだが,理不尽なことが大嫌いで糾弾しているだけで,右でも左でもなさそうだ.きっちりデータを集めて書いている強みからか,著者の書き方にブレはない.
 是々非々でしか判断できない私には賛同できる論もあればできない論もあるけれど,理不尽を正そうたってなぁ...ストレス溜まるだろうな,と思う.
 理屈や理性というものが存在し――私は想像上の産物だと思うが――大多数の人間にそれが備わっているのであれば,世の中の理不尽自ずと正され,<民主主義>など疾うの昔に実現している筈だけれど...
 「裁判がヘンだ!」の章にあった,(殺人の)「動機というのは、あくまで言葉である。言葉で表現されないものは、動機ではない。だから、犯罪をおかす前に動機なんて存在しないケースはたくさんある。」という見解には,賛同する.(続く)
 著者は資料代(主に本代)に月額最高40万円も使うそうだが,全部経費で落とすにしても,物書きの中でも並みではない.

△小池昌代『屋上への誘惑』(光文社文庫 2008.親本 2001)
 小池の本業は詩人だが,小説――例えば『黒蜜』――のほうが面白い.
 エッセイは初めて読んだけど,真剣かつナイーヴに<言葉>に拘る姿勢には,皮肉抜きに感心した.でも,哲学を<てつがく>,思うを<おもう>などと平仮名表記するセンスはあまり好きじゃない.
 「人殺し」と題されたエッセイには,殺人を犯して「どうしてこんなことになったのか、わからない」という妻に対して「問い詰めても仕方ないと思った」と語る夫を,裁判長が理解できない一幕を記録した公判記事が引用されている.
 「検察官も裁判官も、裁く側が、殺した理由を説明せよ、というなかで、この夫だけが、「問い詰めても仕方がない」として、妻を、罪そのもののなかへ、闇のなかへ送り返している。妻は、この闇のなかで、この先も自分の為したことを考えていくだろう。」
(続き)やはり殺人には「動機」がなければならないと――少なくとも司法上は――されているのである.
 ちなみに本書で一番気に入ったのは本人の文章ではなく,「母の怒り」と題されたエッセイ中に引用されている野見山朱鳥の次の俳句である.
 「犬の舌枯野に垂れて真赤なり」...いいネ!

○佐藤亜紀『激しく、速やかな死』(文藝春秋 2009)
 サド侯爵の「弁明」に始まり,タレイランが元愛人に送った手紙の体の「荒地」や,「戦争と平和」の脇役(クマ)の一人称で綴った「アナトーリとぼく」等を挟んで,ボードレールの独白「漂着物」で終わる7つの短編.
 仏蘭西革命を鍵言葉に,18世紀後半から1世紀弱のスパンで編年体で書かれた連作小説のように見える.
 「作者による解題」に現れる「...と考えていただいて構わない」とか「言わずもがなだが」とか「読んだことのある方なら...に気が付かれることだろう」といった言い回しからも「分かる奴にだけ分かればいい」という姿勢は明らかだが,いっそ仏蘭西語で書いて地元で出版すればいいのにと思えるくらい良く出来た(トルストイのパロディを含む)仏蘭西文学のイミタツィオーンである.
 最近の作品は未読なので分からないが,今までに読んだ著者の小説にハズレはなく,本作も(私の乏しい教養では充分理解できないものの)楽しめる内容になっている.
 ちなみに,ネットで「作品はいいのだが本人はどうも...」といった記述を複数目にしたので,久々にネットでサトウアキを検索したところ,ブログは実質休止状態だったがツイッターにはヒットした.
 で,読んでみたら...成る程,慥かに「敵」と見なした相手に対する著者の「狂犬」染みた罵詈雑言を見て,あの流麗な文章の書き手とこの汚い文句の吐き手が同一人物とは...と感慨深かった.くわばらくわばら...

△内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文春文庫 2011.親本 2008)
 内田センセーは最近もガンガン本を出しているけど,私はブクォーフの105円棚に落ちて来たものを主に読んでいる.数歩遅れで時事ネタを読むほうが<クール>に判断できるという利点もあるが,もとよりセンセーの著書は同工異曲で特に古びるということもなく,どれを読んでもどれから読んでも構わないので,たいへん重宝なのである.
 ヘーゲルやレヴィナスを称揚する一方でマルクス主義やフェミニズムを否定する記述――個人史に由来する反動かも知れない――はほかの著書でも繰り返されているが,<理屈>(理論,とは言うまい.)としてはどっちもどっちだという気がする.私の理解力が足りない所為なんでしょう,どうせ.
 ただ,センセー本人が「「話半分」の人」と自認し明記しているくらいだから,センセーが書いていることを読者が話半分に読んだとしても<フェア>であって,盲信する必要は毛頭ない――当然でしょ.
 センセーは,自身が構造主義文化人類学的に<クールでリアル>と捉えている自明の原理――原理が幾つあるのかは明示されていないが,一例を挙げれば,レヴィ=ストロースによる「親族の存在理由は」「親族の再生産である」という同義反復――に基づいて人間社会は動いており,それで大概の事象の説明はつくと考えているようだ――構造主義が定説化しているとは知らなかったけれど.
 センセーは,マスコミが飽きもせず投げ掛けてくる「どうして現実社会はあるべき状態になっていないのか?」という類の質問に対して,その都度律儀に答えている.
 それは,センセー自身によると,相手が「どういう答えを聞きたがっているか」を探り当てられるので,どんな質問(愚問?)に対しても「即答することができる」からだという.
 センセーは,理論と現実の齟齬なんてつまらないことに悩むこともなく,相手のニーズに応じて如何様にでも回答できる――なんとサービス精神豊かなことか.
 センセーは,朝日新聞を取るのを止めた理由について,「どのような問題についても「正解」があり、それを読者諸君は知らぬであろうが、「朝日」は知っているという話型に対する不快感が限度を超えた」からだと書いている.「朝日」をセンセーの名前に置き換えて,センセーの本を買うのを止める理由にしてもちゃんと成り立つ文章になっている――なんと気が利いていることか.
 内田センセーの著書は,氏を手本にして知的な物言いを処世術ないし芸として身を立てたい売文業志望者にとっても,氏の存在を似非文化人/反面教師の例として肝に銘じたい知的読者にとっても,有用なテキストだと私は思う.
 ちなみに私はセンセーの書くものが嫌いな訳では全くない.SF――speculative fictionのほうね――エッセイとして楽しめるものが結構あるので.
 本書の中では,「共同体の作法」の章が特に面白かった.
 例えば「食の禁忌」と題された文章では,トマス・ハリスの『ハンニバル』シリーズで人肉嗜食者レクター博士に法外な威信が与えられている理由を,「「人間を殺して食う人間」は「動物を殺して食う人間」に「罰」を下しているということである」と説明している.つまり,動物を殺して食う<罪>を,人を殺して食う<罪>によって<相殺>しているという解釈.面白いでしょ.でも定説になれるかな?
 なお,本書でいちばん残念だったのは,『ひとりでは生きられないのも芸のうち』という書名をまえがきで自画自賛している図.どう見てもダッセえタイトルだと思うが...

△貫井徳郎『微笑む人』(実業之日本社 2012)
 著者が「ぼくのミステリーの最高到達点です」と自負している一方で,読者の評価は賛否真っ二つに別れているようなので,好奇心に駆られて読んでみた.
 本作は,殺人犯が告白した動機が信じがたいものであったことに違和感を覚えた小説家が,「真実」を求めて関係者への取材を始め,初の「ノンフィクション」作品を書き進める過程を,一人称のドキュメンタリーとして描いた<偽ドキュメンタリー小説>である.
 折原一ふうの叙述ミステリとして着地するのかと思ったら,予想は全く裏切られた.ミステリの場合,予想を裏切られるのは大概快感なのだが,本作の場合は...
 これはミステリからの逸脱というよりも遁走,あるいはフィクションの(ノンフィクションに対する)敗北宣言なのか? 慥かにこの結末では,桐野夏生『柔らかな頬』の結末以上に賛否が分かれることだろう.
 桐野の場合は,著者の作品史においてミステリへの決別とも位置付けられる作品であり,その後の作品がミステリの枠から離れているのも納得できるのだが,貫井の場合は,本作を書いた後でぬけぬけと<普通>のミステリの世界へ戻って来れるのだろうか? 今度,最新長編『ドミノ倒し』を読んでから判断しよう.
 急に思い出したが,本作は清水義範『迷宮』に似ている.あの作品を読んだときはつまらないと思ったが,本作を読んだらあっちのほうが面白かったような気がしてきた.それは何故かを考えるために『迷宮』を再読してみよう.
 (続き)しかし,フィクションの場合は,殺人に納得できる動機がないとなると(サイコホラーなら兎も角)Whydunitは成立し得ない.私はミステリに限っては保守派なので,それではカタルシスが得られそうにないから,嫌だ.

●NHK
 傾向雑誌『週刊金曜日』の中で唯一面白い連載「高須芸能」で,高須基仁がNHKの「鎹思案」偏向路線を一刀両断している(2013年12月20日号).
 『あまちゃん』は「岩手県は宮城県に比べ、"津波"のダメージが少ないということで、三陸を舞台に」して,「複雑に入り組んだ東日本大震災のパラドックスを"じぇじぇじぇ"に集約して、単純化し、一刻ではあるが、東日本大震災の"身もフタもない状況"を忘却の彼方に追いやり、バラエティ化」したものだし,『八重の桜』は「福島原発から離れ、放射線量の点から安全地帯の扱い」である「会津若松を舞台に設定し、福島県の中で永く"国賊"扱いをうけた明治以降の"おんねん"を、新島襄の妻に光を当てることで晴らした」が「根柢にあるのは、明治天皇と会津藩の"和解"であり、安倍晋三首相の出自である"長州藩"との確執には片目をつぶり、まさに"半眼"的視点の歴史ドラマ化」を図ったもので、いずれも"まっ赤なウソ"のドラマである,という指弾.
 また,NHKが今年の紅白歌合戦にトーホク出身の司会者や"ドラマ役者"を大勢投入するのは「事実・真実から国民の目をそらせるかのような」キャスティングであり,目玉出演歌手に抜擢された泉谷しげるは「役者として生業を成功させ、強面でバラエティに出て、歌といえば「春夏秋冬」しかないというのに」「「フォーク時代の旗手」としてまっ赤なウソをつきとおし、いつの間にやら、反戦フォーク歌手っぽいフンイキさえ醸し出させている」「故・高田渡の足元にも及びつかず、単なるバラエティ強面暴言役者兼、歌うたいだ」と指摘する.
 やや穿ちすぎの感もあるが,ほぼ的を射ているのではないか.泉谷については全くそのとおりだと思うし,ドラマに関しては,クドカンも視聴者もNHKの狡知な罠に嵌まって結果的に踊らされていたんじゃないのかね?
 要は,慰撫と目眩ましによって愚民の怒・哀の高まりを抑え,喜・楽の境地に導こうという有難い政策の一環という訳である.分かりやすすぎて恥ずかしい.

△三池崇史『悪の教典』(2012.東宝)
 2時間ちょっとの長さに纏めたのはかなりの力業だと思う.原作よりも分かりやすくしすぎた所も端折りすぎた所もあるが,結果的に原作以上に無理の多い話になってしまった.
 主人公の度重なる凶行が用意周到なのか行き当たりばったりなのかよく分からない所が逆にリアルとも言えるのだが,あれだけ大胆なことを繰り返してもなかなかバレないのは相当(悪)運に恵まれているとしか言い様がないし,警察は何をやってるんだ,ここまで無能か?と,原作以上に戸惑わされた.
 ちなみに,最期の大量殺戮シーンの欠点は<残虐さ>にあるのではなく――残虐性を描いた映画を観て残虐性を非難するのは頓珍漢なことでしかない――殺し方と死に方の描き方がマンネリズムに陥っている所にある.もっと工夫が欲しかった.

△瀬々敬久『ヘヴンズストーリー』(2010 ムヴィオラ)
 予備知識がなかったので,途中までは刑法39条を扱った映画なのかなと思って観ていたが,全然違った.複数の突発的な殺人事件の被害者・加害者たちが絡み合い結び付き<救われる>迄を描いた「現代の『罪と罰』」ということだったらしい.
 最悪の体調で観たにもかかわらず4時間38分という上映時間を長いと感じなかったのは,飽きないように全体を9章に分けて作ってあるからだろう――まだ30分以上削れる気はしたが.
 悪い映画ではない.だが,ドキュメンタリー然として撮られた場面を含む概ねリアルな映像の中で,手描きアニメに差し替えられた鳥が羽ばたく場面や,死者たちが皆<天国>で平穏に暮らしているかのように描かれるラストには,違和感を覚えざるを得ない.
 個々の役者の演技はいいけれど,彼岸に救いを求めるかのような監督の思想?には疑問.信じる者は巣くわれる.

△トーク&「不屈の民」ライヴ!!!!! 出演 竹田賢一・大谷能生・大熊ワタル(吉祥寺Sound Cafe dzumi 12/15)
 3人による「不屈の民」の演奏15分+トーク1時間45分.
 演奏は可も無く不可も無し.
 トーク内容で興味深かったのは,大谷が本格的に演奏と音楽批評を始めた1990年代には,既にあらゆるジャンルの音楽が並列的に聴かれる<ポストモダン>的状況が現実と化している半面,音楽に関わる有用な資料やナヴィゲータが払底していたために,歴史を遡って勉強するのに苦労したという述懐.彼は「JAZZ」誌等のバックナンバーを古本屋で捜し,竹田の過去の文章を収集していたという.「『地表に蠢く音楽ども』は20年前に出して欲しかった」という恨み言には全く同感である.
 大谷や菊地成孔なら分かるが,竹田もまたバークリー・メソッドを面白いと発言していたのは,意外――でもないか.楽曲分析理論の一つとして――万能理論と勘違いしないで――使う分には慥かに有用かも知れない.ただし,記号論的還元はある意味気分をスッキリさせるとはいえ,それをもって面白い音楽が作れるかどうかは全然別の話である.
 ほかにも,竹田の若い頃の未公開ネタが幾つか聞けたのは興味深かったが,肝心の『地表…』の内容自体について殆ど語り合われかったのは残念.

●今月はほかに2つコンサートを観たが,想定内の演奏ばかりで面白くなかった.客には受けていたけど.
 今後は実演内容を再確認するために観に行くようなことはなるべく止めようと思う.

●汝の敵を愛せよ
 何故なら敵なくしては味方も味方の結束も生まれないから.
 敵にとっても事情は同じである.
 全ての者の敵になろうとする者は全ての者の敵となる.
 全ての者の味方になろうとする者も全ての者の敵となる.

2013.12.29 GESO


- 関連一覧ツリー (▼ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ
Eメール
subject 入力禁止
Title 入力禁止
Theme 入力禁止
タイトル
URL 入力禁止
URL
メッセージ   手動改行 強制改行 図表モード
メッセージには上記と同じURLを書き込まないで下さい
削除キー (英数字で8文字以内)
  プレビュー

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー