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タイトルGESORTING 204 ロキソニンはもう効かない
記事No112   [関連記事]
投稿日: 2017/01/09(Mon) 22:17:41
投稿者geso
読みたいもの・観たいもの・聞きたいものを享受する一方で積ん読や積ん見が溜まっていく.
不足したものは取り入れ溜まったものは吐き出さないと均衡が保てない.
かつての記憶力があれば覚えていられたものも今ではすぐ忘れてしまうので思い出す都度書き付ける必要がある.
除外項目――日常生活の愚痴等――を設ける必要もある.
でも友人知人あてのメールにはときに余計なことを書き連ねてしまう……許されろ.
2016年3月以降上書きを繰り返したメモから.


○井上亮『忘れられた島々「南洋諸島」の現代史』(平凡社新書 2015)
 西班牙も葡萄牙も独逸も英国も米国も日本も南洋群島の侵略者/収奪者/文化破壊者だったという恥ずべき歴史から日本人は何も学んでこなかったことが分かる歴史書.著者は日経新聞編集委員とのことだが日経にもマトモな記者がいたんだな.
△栗原康『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店 2016)
 これが評伝?著者は囃し立てているだけで面白いのは伊藤野枝の元ネタのお蔭.確信犯的悪文には我慢するとしても漢字表記すればいいのにわざわざひらいているところや定型句の明らかな誤用に苛立つ.
△米澤穂信『満願』(新潮社 2014)
 35歳(執筆当時)にしては老成した文章による手堅いミステリ短編集.後味が悪いのはいいとしても連城作品の影響を受けているならもう一捻りして欲しかった.
○篠田博之『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま文庫 2015.親本 2008)
 犯罪の抑止力になるという理由で死刑制度を肯定する人にとっては死刑にされたくて殺人を犯す人間がいることは信じ難いだろうがそういう人間も実在するのは事実.死刑にされたい者にとって死刑は刑罰ではなく救済.「だから死刑制度に反対」という気も起きないのはそもそも生殺与奪権を国家が独占していることが気に食わないからである.
○長田弘『ねこに未来はない』(角川文庫 1975.親本 晶文社 1971)
 本来はこうした装飾過多の文章は嫌いなんだけど内容が良いので可.購入した角川文庫版は平成20年発行で24刷だから凄いロングセラーだ.
○種村季弘『贋物漫遊記』(ちくま文庫 1989.親本 1983)
○赤坂真理『東京プリズン』(河出文庫 2014.親本 2012)
○上原善広『被差別のグルメ』(新潮選書 2015)
△本島進『たばこ喫みの弁明』(ちくま文庫 2008.親本 慧文社 2004)
 穏当な保守派による煙草擁護論.文庫解説というのは大抵著者をヨイショした内容だから幾分割り引いて読む必要があるが本書の場合はもとより著者に対して批判的である点が面白い.書いたのはスガ秀実か.なるほどね.
△山田正紀『桜花忍法帖(上下)』(講談社タイガ 2015)
△『SF JACK』(角川書店 2013)
 日本SF作家クラブ設立50周年記念オール書き下ろしアンソロジー.○は吉川良太郎,上田早夕里,山田正紀,山本弘,宮部みゆき.
○赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書 2014)
△連城三紀彦『わずか一しずくの血』(文藝春秋 2016)
 面白いけどミステリ的には無理筋すぎる.
△アン・レッキー『叛逆航路』(創元SF文庫 2015.原著 2013)
 細部はリニューアルされているがプロットは古典的な復讐譚でロマンティックなSF.それほどの傑作とは思えないのに7つも賞を獲ったのは不思議.
○中川ホメオパシー『バトル少年カズヤ』(リイド社 2016)
 相原コージ+竹熊健太郎『サルでも描けるまんが教室』(小学館 1990〜1992)取り分け第3巻「Practice-7 路線を変えてみよう」直系の子孫に当たる電波+鬼畜系ギャグ漫画.発禁になる前に買うべし.
○山田正紀『屍人の時代』(ハルキ文庫 2016)
○同『カムパネルラ』(東京創元社 2016)
 2016年の山田正紀は久々に良かった.2017年出版予定の「クトゥルフ少女戦隊シリーズ」3作目はちょっと心配.
○赤田祐一+ばるぼら『定本 消されたマンガ』(彩図社 2016.親本「消されたマンガ」 鉄人社 2013
○獅子文六『コーヒーと恋愛』(ちくま文庫 2013.親本 新潮社 1963)
○いしわたり淳治『うれしい悲鳴をあげてくれ』(ちくま文庫 2014.親本 ロッキング・オン 2007)
 ちょっと都筑道夫に通じるセンス.侮れない.
○ねこまき『ねことじいちゃん 2』(KADOKAW 2016)
 何事も起こらないことにホッとする漫画.
△鹿島茂『モンフォーコンの鼠』(文藝春秋 2014)
 プロットは凄く面白いが小説家の文章ではなく学者の文章.汚物塗れの19世紀パリ市街やハードコアな濡れ場を描くも強烈な臭気や色気を感じさせず説明的なところが難.例えば分かる者だけ分かればいいという傲慢な姿勢で説明を省略しつつも雰囲気を適確に伝えられる佐藤亜紀(性格は悪いが小説は良い)の巧みな文章には敵わない.
○中川翔子編『にゃんそろじー』(新潮文庫 2014)
 なかなか良いラインナップで侮れない.内田百閨uクルやお前か」ほか涙なしには読めぬ作品を含む.
○洞田創『平成うろ覚え草子』(飛鳥新社 2014)
 江戸末期の浮世絵師が平成にタイムスリップし再び江戸に戻ってから うろ覚えで描いた平成の事物や風俗の記録という設定.アイディアも絵も文章も見事.
○栗原裕一郎『<盗作>の文学史 市場・メディア・著作権』(新曜社 2008)
 「文芸作品をめぐって起こった盗作事件の収集と分析と検証を目指した」本.類書がありそうでない貴重な資料.お蔭で江藤淳と倉橋由美子の論争(というか喧嘩)の具体的内容を初めて知ることができた.この件が今まで殆ど取り扱われて来なかった理由は論争の舞台となった東京新聞に縮刷版が存在しないため原資料に当たるのが難しかったためだという.産経新聞に縮刷版がないことは不思議ではないけれど東京新聞にもないとは……
○中川ホメオパシー『干支天使チアラット 1』(リイド社 2016)
 『カズヤ』ほどではないがこちらも笑える鬼畜系.
○山田参助『山田参助の桃色メモリー』(KADOKAWA 2016)
 確信犯的アナクロエロマンガ集.
○諸星大二郎『BOX〜箱の中に何かいる〜1』(講談社モーニングKC 2016)
 久々の現代もの連載作品.早く続きが読みたい.でもこの作品を映画化したらシャマランになっちゃって駄目かも.マンガで良かった.
×若杉冽『原発ホワイトアウト』(講談社 2013)
 「日本の裏支配者の正体」は明かされちゃいないし小説としては生硬/サスペンス不足.現役キャリア官僚が書いたという付加価値なくしては売れなかっただろう.
○クリストファー・プリースト『逆転世界』(創元SF文庫 1996.親本 サンリオSF文庫 1983.原著 1974)
 アイディア一発なるも伏線の回収ぶりが見事.フランシス・デステインのモデルはニコラ・テスラかね?
○倉橋由美子『最後の祝宴』(幻戯書房 2015)
 『<盗作>の文学史』ではわずかしか引用されていなかった江藤淳への反論の全文が読める.
○花輪和一『刑務所の中』(講談社漫画文庫 2006.親本 青林工藝社 2000)
 文庫サイズは小さすぎるけど必読の増補改訂版.
○同『花輪和一初期作品集』(青林工藝社 2007)
○同『天水 完全版』(講談社漫画文庫 2009)
○同『コロポックル 完全版』(講談社KCデラックス 2004)
○同『風童』(小学館 2013)
 自分の中では3度目くらいの花輪ブーム.増補改訂版を揃えたい.
○吾妻ひでお『失踪日記2 アル中病棟』(イースト・プレス 2013)
○近藤ようこ『五色の舟』(KADOKAWA 2014)
 原作者 津原泰水の作風はあまり好きじゃないが本作についてはいずれ原作も読みたい.
○清水潔『殺人犯はそこにいる』(新潮文庫 2016.親本 2013)
 「文庫X」版.「調査報道」のお手本でありリアル「犯人に告ぐ」ドキュメンタリ.そういえば産経の馬鹿記者が『南京事件 兵士たちの証言』(清水が制作したNNNドキュメント)にイチャモンをつけて返り討ちにあっていたが所詮敵う相手ではない.
○上野顕太郎『さよならもいわずに』(エンターブレイン 2010)
 愛妻との死別を描いた悲痛なドキュメントの中でも冗談をカマさずにはいられないギャグマンガ家の性に感動.
○萩尾望都・田中アコ『菱川さんと猫』((講談社アフタヌーンKC 2010)
 青森市(作中では穴森市)を舞台にした化け猫ファンタジーマンガ.続編を切望.
○村上竹尾『死んで生き返りましたれぽ』(双葉社 2014)
○いましろたかし『デメキング 完結版』(太田出版 2007)
 1991年「ビジネスジャンプ」で連載〜打切りされた未完の怪作にして偉大なる失敗作の完結編.著者の世界に共感できるマンガ読者層はどんどん減っているに違いないからファンは応援し続けなくちゃ.

映画
○山本透『猫なんかよんでもこない』(日 2015)
 猫好き以外は観る必要がないが猫好きにとっては「あるある」の連続.主役の風間俊介は若い頃のエンケンに似ている.映画の後で原作マンガ全4巻も読んだがそちらも良し.
○園子温『紀子の食卓』(日 2005)
△同『エクステ』(日 2007)
○森達也『FAKE』(日 2016)
○宮藤官九郎『TOO YOUG TO DIE! 若くして死ぬ』(日 2016)
○庵野秀明・樋口真嗣『シン・ゴジラ』(日 2016)
 2回観たのは2回観ないと分からない台詞が多かったから.
○デヴィッド・ヴェンド『帰ってきたヒトラー』(独 2015)
○シャルミーン・ウベード=チナーイ・アンディ・ショーケン『ソング・オブ・ラホール』(米 2015)
△新海誠『君の名は。』(日 2016)
 思い返せば電通臭さプンプンのヒット狙い作品ではある.
○田中登『(秘)色情めす市場』(日 1974)
 6度目の鑑賞.トークショー付き上映会で芹明香を初めて生で見られて感無量.
△ティム・バートン『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(米・英 2007)
△山口雅俊『闇金ウシジマくん 2』(日 2015)
×ジョン・ヒューストン『許されざる者』(米 1960)
 カイオワ族何モ悪クナイ.何故皆殺シニサレルカ?
△三浦大輔『何者』(日 2016)
◎片渕須直『この世界の片隅に』(日 2016)
 2回観たのは素晴らしかったから.実写・アニメを問わず近年最上の映画の一つ.白木リンのエピソードを含むディレクターズカット制作に期待.
△赤堀雅秋『葛城事件』(日 2016)
△白石和彌『日本で一番悪い奴ら』(日 2016)
△中野量太『湯を沸かすほどの熱い愛』(日 2016)
 脚本は無茶だが俳優陣の熱い演技に助けられている.宮沢りえ男前.りりィの遺作か.
△行定勲『ジムノペディに乱れる』(日活 2016)
 ロマンポルノリブート・プロジェクト第1弾.そつが無い出来でリブートというよりリアピアランス.板尾創路演じるサイテーなのにやたら持てる主人公のモデルは相米慎二らしい.主人公に絡む女性たちは往年のロマンポルノ女優のスター性を欠く.風祭ゆきのカメオ出演(板尾の植物人間状態の妻役)は嬉しい.
○塩田明彦『風に濡れた女』(日活 2016)
 同プロジェクト第2弾.監督+主演2人の舞台挨拶付き上映だったが「日活お正月映画」との監督の弁(笑).笑かすシーンもある欲望一直線のパワフルなエロは『ジムノペディ』の衰弱したエロよりも○.

イヴェント
○3.20 日比谷図書文化館『祖父江慎+コズフィッシュ展 ブックデザイ』
 祖父江さんは好き勝手にやらせてもらえて羨ましいなーと思う装幀家は多いことでしょう.
△7.23 江戸東京博物館『大妖怪展』
 大人の事情があるとしても水木しげるが全く除かれていて妖怪ウォッチが入っている妖怪展ってどーよ? おかしいでしょ.
○10.16 テルプシコール『天麩羅劇場の欄干 VOL.3』
 30分の短さに驚いたがいっそ清々しい.長時間の芝居は疲れるだけなのでもう結構です.

音楽関係は省略.良いものは良く悪いものは悪かった.

2017.01.09 GESO

タイトルGESORTING 203 still memorize
記事No110   [関連記事]
投稿日: 2016/03/12(Sat) 01:52:39
投稿者geso
2014年後半から2015年末にかけて,病気になったり失業したり入院したり通院したりと私は散々な目にあって,ものを考えたり書いたりする余裕がまるでなかった.辛うじて本を読むことと映画を見ることは――キツかったが――できたけれど,音楽は聞く気にならず,ライヴやイヴェントにも殆ど行かなかった.
今も困難な状況は続いているが,やや落ち着いてきてはいるので,この間に読んだ本と観た映画(DVDを含む)をメモすることにした.記録漏れもあるけど...
震災からちょうど5年目の昨日は何事も無かった.

2014年(5月以降)

○森達也・森巣博『ご臨終メディア――質問しないマスコミと一人で考えない日本人』(集英社新書 2005)
 本書ではメディアの「ご臨終」の契機を1995年の阪神淡路大震災とオウム事件と捉えてはいるものの,森は「「臨終」はつまり「終わりに臨む」わけで、まだ正確には終わりじゃない」と後書きに書いている.だがその後,2011年の東日本大震災と福島原発事故を経て,メディアは本当にご臨終したのではないか?
(追記)2015年には間違いなくご臨終したと思う.

△遠藤武文『プリズン・トリック』(講談社文庫 2012.親本 2009)
 冒頭の(実在する)市原交通刑務所の描写のリアルさは花輪和一『刑務所の中』並みで,実際に入ったことがなければ書けないのではないかと思わせるし,他の描写も逐一リアル.兎に角勉強してるのね.密室殺人トリックはじめアイディアもテンコ盛りだし,水準以上のミステリではある.でも今一つ楽しめないのは,文章が練れてないから.このプロットで例えば島田荘司が書いていたら,もっと面白くなっただろう――作者には失礼ながら.

○松井今朝子『三世相』(ハルキ文庫 2010.親本 2007)

○クラフト・エヴィング商會プレゼンツ『猫』(中公文庫 2009.親本 2004.底本 1955)
 有馬頼義・猪熊弦一郎・井伏鱒二・大佛次郎・尾高京子・坂西志保・瀧井孝作・谷崎潤一郎・壺井栄・寺田寅彦・柳田國男の短編(主に随筆)を収めた底本に,クラフト・エヴィング商會の書下ろし漫画――蛇足だと思う――を加えて再編集したもの.猫もののアンソロジー自体はありふれているが,本書は粒が揃っている.

△芦刈いづみ・飯富崇生『時計じかけのハリウッド映画 脚本に隠された黄金法則を探る』(角川SSC新書 2008)
 イントロダクション〜インサイティング・インシデント〜ファースト・ターニング・ポイント〜ミッド・ポイント〜セカンド・ターニング・ポイント〜クライマックス〜エンディング.それを2時間以内に収める... 物語映画に対する在米大衆の平均的欲望(?)を充足し得る脚本という点に限って言えば,この構成は黄金律として慥かにあるのだろう.聖林映画はそれを帰納的に発見し,演繹的に洗練してフォーマットを作り,観衆を馴致/再生産する実験場だったのだろう.その流れにあっては,リンチやタランティーノの<フォーマット崩し>はジャズに対するフリージャズのような存在で,結果的には精々本流を補完し延命させるのに役立っただけなのかも知れない...
 しかし,世界中の映画が聖林映画と同じ構造で作られる必然性など,もとよりない.この手の本は反面教師的に役立てるのが正しいと思う.

○マックス桐島『ハリウッドではみんな日本人のマネをしている』(講談社+α選書 2009)
 タイトルと著者名から胡散臭い愛国エッセイかも知れないと危惧したが,どんな国にもどんな民族にも良い所もあれば悪い所もあるというバランス感覚に基づいた真っ当な現場報告/比較文化論だった.善し悪しの基準自体がそれぞれ違うという問題はあるにせよ,大筋で善意は通じるという楽観/性善説は私には眩しすぎるけど...
 『時計じかけのハリウッド映画』と併読すると,近年の聖林映画は必ずしも「黄金法則」を遵守する姿勢ではなくなっていることが窺えて面白い.桐島は『時計じかけ...』の著者たち――現職はライターと写真家――よりも20歳以上先輩と思しき聖林の現役プロデューサーで,説得力はこっちのほうが上.

△森巣博『セクスペリエンス』(集英社文庫 2006)
○同『蜂起』(幻冬舎文庫 2007.親本 金曜日 2005)
 前者はオーストラリアを舞台に,ギャンブルに負けた代償で性的に蹂躙されたヒロインがギャンブルと性を利用して男たちに復讐するお話.後者は階層化が進んだ近未来の日本でプレカリアートたちが蜂起し内乱――革命ではない――を起こすお話.全ての森作品がそうであるように「市民」を挑発する「非国民/不敬小説」.評価は分かれるだろうが,私は楽しんだ.
(追記)『蜂起』のリアリティが昨今増してきた.

○池田清彦『科学とオカルト』(PHP新書 1999)

○松田洋子『好きだけじゃ続かない』(エンターブレイン 2014)
 1980年代初頭の(東京に憧れる)田舎の中高生の思春期を容赦なくリアルに描いた作品集.多分に自伝的作品が多い.「年をとると何でも「いい思い出」に出来るので都合いいもんです」と作者はあっさり述べているが,ここで描かれる沢山の苦しい思い出を「いい思い出」に昇華させるのはかなり大変だったに違いない.

○梨木香歩『水辺にて』(ちくま文庫 2010.親本 2006)
 著者が,水辺好きが嵩じて(非力なのに)一人でカヤックを漕ぐ人となり,日本のみならずカナダやアイルランドやスコットランドの河や湖にまで足を運んでいたというのは意外だったが,アウトドアスポーツとしてではなく,観察と空想のための乗り物としてカヌーイングしていることが分かって納得.

○山田参助『あれよ星屑(1)』(KADOKAWA 2014)
 敗戦直後,大陸で死に損なった二人の帰還兵の東京焼け跡グラフィティ.ハードゲイ漫画を描いてきた作者初の「普通」作品らしいが,バロン吉元『柔侠伝』シリーズを彷彿させる傑作の予感.絵柄も守村大+バロン吉元という感じ.

○樋口毅宏『日本のセックス』(双葉文庫 2012.親本 2010)
 『さらば雑司ヶ谷』はちょっと期待外れだったが,これは傑作.

○島田荘司『写楽 綴じた国の幻 上下』(新潮文庫 2013.親本 2010)
 チェックしていないが,本作も多分いろんな批判をされたことだろう――「江戸編」の会話文をどういう積もりで現代語にしたんだ?とか.だが,毀誉褒貶あっても島田荘司はやはり面白い.

○赤江瀑『春喪祭』(徳間文庫 1985.親本 1977)

△勢古浩爾『まれに見るバカ』(洋泉社新書 2002)
 半分くらいはいいところを突いてるが,悪口のセンスが下品で見苦しい.

○四方田犬彦『月島物語』(集英社文庫 1999.親本 1992)
○吉田秋生『海街diary 5 群青』(フラワーコミックス 2012)
○同『海街diary 6 四月になれば彼女は』(フラワーコミックス 2014)
○小島毅『増補 靖国史観』(ちくま学芸文庫 2014.親本 ちくま新書 2007)
○日本橋ヨヲコ『少女ファイト 11』(講談社 2014)
△堀井憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』(講談社現代新書 2014)
○笠井潔・白井聡『日本劣化論』(ちくま新書 2014)
○清野とおる『ウヒョッ! 東京都北区赤羽 第3巻』(双葉社 2014)
○泉流星『僕の妻はエイリアン』(新潮文庫 2008.親本 2005)
△小出裕章『騙されたあなたにも責任がある』(幻冬舎新書 2012)
△森達也『アは「愛国」のア』(潮出版社 2014)
△呉智英・適菜収『愚民文明の暴走』(講談社 2014)
○藤井聡・中野剛志『日本破滅論』(文春新書 2012)
○ウォルター・ブロック『不道徳な経済学』(講談社+α文庫 2011.親本『不道徳教育』 2006)
△本間祐編『超短編アンソロジー』(ちくま文庫 2002)
○ジャレド・ダイアモンド他『知の逆転』(NHK出版新書 2012)
△連城三紀彦『処刑までの十章』(光文社 2014)
△古屋兎丸『鈍器降臨』(メディアファクトリー 2004)
○F.ヴェデキント『地霊・パンドラの箱』(岩波文庫 1984.原著 1906)
○山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた』(光文社選書 2002)
○山田正紀『クトゥルフ少女戦隊 第一部』『同 第二部』(創土社 2014)
△楡周平『「いいね!」が社会を破壊する』(新潮新書 2013)
△岸博幸『アマゾン、アップルが日本を蝕む』(PHPビジネス新書 2011)
○テッサ・モーリス・スズキ『過去は死なない』(岩波現代文庫 2014.親本 2004)
○山田参助『あれよ星屑(2)』(KADOKAWA 2014)
×中島浩籌『心を遠隔管理する社会――カウンセリング・教育におけるコントロール技法』(現代書館 2010)
○品川正治『激突の時代「人間の眼」VS.「国家の眼」』(新日本出版社 2014)
○F.ヴェデキント 『地霊・パンドラの箱――ルル二部作』(岩波文庫 1984.原著 1895・1906)

映画
×橋本一『探偵はBARにいる』(日 2011)
 前半の<映画っぽく作ったテレビドラマ>風の軽さと後半の<シリアスなテレビドラマみたいな映画>風の軽さとでバランスを取った積もりなのだろうか? ハードボイルドのお約束から外れようとする思惑は想像できるので原作は読んでみたくなったが,映画は何しろテンポが悪い.

△神代辰巳『濡れた欲情特出し21人』(日 1974)
○神代辰巳『四畳半襖の裏張り しのび肌』(日 1974)
○呉美保『そこのみにて光輝く』(日 2014)

△武内英樹『テルマエ・ロマエII』(日 2014)
 前作のヒットのお陰で作ることが出来た同工異曲の2作目.3作目も準備中らしいが,もう作らなくていいと思う.

○矢口史靖『WOOD JOB!~神去なあなあ日常〜』(日 2014)
○神代辰巳『赤線玉の井 ぬけられます』(日 1974 

○田中登『(秘)色情めす市場』(日 1974)
 5回目の鑑賞.何度観ても良いものは良い.

○ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』(独・英 2014)
 全く好き放題に作っているのにこの監督が同業者に敬愛されているのは,才能だけではなく人柄にもよるのだろう.

△同『ファンタスティックMr.FOX』(米・英 2009)
△トラビス・ファイン『チョコレート・ドーナツ』(米 2012)

○深作欣二『仁義の墓場』(日 1975)
 狂暴なヤクザをモデルにした実録もの.全く同情の余地がない渡哲也の狂いぶりが素晴らしい.東京を所払いになった渡に芹明香がシャブを教える(洒落にならん)大阪潜伏中のシークエンスは,明らかに『(秘)色情めす市場』へのオマージュ.

○神代辰巳『濡れた欲情 開け!チューリップ』(日 1975)

△中島哲也『渇き。』(日 2014)
 『下妻物語』と『パコと魔法の絵本』の原作は未読だが,既読の『嫌われ松子の一生』と『告白』が原作よりも面白かったので,中島監督には注目していた.今回はあの後味の悪い小説をどう料理したか,それと,近頃稀な賛否真っ二つの評判――大多数は「否」らしい――に興味があったので,観に行った.
 客は6分の入りだったが,途中で席を立つ人が私よりも前の列だけで6,7人もいたのには驚いた.この程度の「暴力描写」や「不快さ」や「救いのなさ」にも耐えられない客がいて,こうした連中がボロクソの評価をツイートしているのか?
 だけど,本作は元々そういう挑発的な映画として作られているのだから,そこに文句を付ける客は来る場所を間違えているとしか言い様がない.自らノイズ系のライヴを観に行っておきながら「音がうるさい」と文句をつけて帰るのと同じだ.
 「ムカツク登場人物ばかり」(多数意見)というのには同感だが,だからといって「全く感情移入できない」(多数意見)というのは,自分の想像力の乏しさの表明でしかない.私の場合,殆どのキャラに感情移入できた――ムカツクけれど.
 本作は監督が本気で原作に惚れ込んで精緻に作り上げた作品であり,映画ファンだったら観る価値はあると思う.タランティーノに似ている所もあるが,中島作品には往年の映画作品へのオマージュという側面はなくて,唯我独尊.映像センスは蜷川実花に似ているが,中島のほうが遥かに上手い.
 本人の好感度が下がりそうな作品に出てハイテンションな演技をしている皆さんの役者根性も立派だが,汗と血に塗れた役所広司のクローズアップの頻度が高すぎる点に限っては,評価が分かれても仕方ないと思う.
 残念だったのは,物語のテンポが次第に緩まり――そのこと自体は計算尽くなのだろうが――最後の辺りが遅すぎると感じられたこと.ここまでスローダウンしなくても良かったのに.でもまぁ,前半の目まぐるしいカット割りが最後まで続いていたら,観るほうは疲れて最後まで持たなかったかも知れない.

○ジョー・ライト『つぐない』(英 2007)
○石井輝男『殺し屋人別帳』(日 1970)
○アレハンドロ・ホドロフスキー『リアリティのダンス』(チリ・仏 2013)
○荒井晴彦『身も心も』(日 1997)
○中島貞夫『鉄砲玉の美学』(日 1997)
○中島貞夫『唐獅子警察』(日 1974)
○ジェームズ・ガン『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(米 2014)
○園子温『TOKYO TRIBE』(日 2014)
○中島貞夫『狂った野獣』(日 1976)
○クリント・イーストウッド『ジャージー・ボーイズ』(米 2014)

○エリック・クー『TATSUMI』(シンガポール 2011)
 クールジャパンならぬダークジャパン.敗戦〜70年代までの高度成長期の繁栄の陰で蠢いていた清くも美しくもなくただ貧しく下世話なニッポン人を描いた辰巳ヨシヒロの漫画数編を,アニメーション映画化したもの.
 原作を深く理解した見事な出来映えで,シンガポールの映画監督にこんな作品を撮られて日本の映画人は口惜しくないのかしらと,愛国奴じゃない私でも思った.
 辰巳は手塚を師と崇めていたというが,絵柄は――緻密な背景と漫画的な人物のコントラストなどを含めて――明らかに水木系である.といっても彼は水木のように妖怪の世界に遊ぶこともしなかったし,手塚のように反戦を訴えることもしなかった.暗くて救いようのない状況に絶望して死を選ぶ主人公や「人生なんて所詮こんなもんさ」といじましく生き続ける主人公ばかりで,幸福な主人公はいなかった(と記憶する)し,イデオロギーも感じさせなかったので,右にとっても左にとっても「利用」し難い作風だったことも,映画化しにくかった一因かも知れない.
 映画には辰巳本人も登場するが,作品から想像されるほど暗い感じではなく坦々とした印象で,海外での評価の高さ――日本国内より高い――を本当に喜んでいる様子だった.
(追記)辰巳は2015年に死去.悲しい.

○きうちかずひろ『JOKER ジョーカー』(日 1996)
△吉田大八『紙の月』(日 2014)
○山崎貴『寄生獣』(日 2014)
○内田吐夢『たそがれ酒場』(日 1955)

2015年

○堀井憲一郎『いつだって大変な時代』(講談社現代新書 2011)
○矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル 2014)
△東雅夫編『怪獣文藝』(メディアファクトリー 2013)
△中島浩籌『心を遠隔管理する社会 カウンセリング・教育におけるコントロール技法』(現代書館 2010)
△山本夏彦『オーイどこ行くの』(新潮文庫 2002.親本 同題1994+『その時がきた』前半のみ1996)

△樋口毅宏『民宿雪国』(祥伝社文庫 2013.親本 2010)
 新潟を舞台にした小説を読むのは『戦争の法』以来かも.
 ミステリなら結末に置かれそうな場面が本作では冒頭に置かれているように,樋口の小説は「書かれたものは全て虚構である」という開き直りとケレンに満ちていて,そこが水道橋博士のような虚実の間で生きる芸人に受けるのだろう.
 だが,例えば竹中直人がいくらシリアスな演技をしても,初期のお笑い芸を擦り込まれている観客(私)には嘘臭いものにしか見えないように,樋口作品は,本当はシリアスなのだと言いたいのかも知れないが,徹底的に底の浅い(ポストモダンな?)コラージュにしか見えない.サブカル雑誌編集者上がりの作者は,多読はするが熟読はしない人なのではないか.
 あとがきや梁石日との対談を読んでも,朝鮮人差別の問題についてかなり真面目に考えている様子ではあるが,本心なのかどうかは疑わしい――というか,少なくとも私には判断がつかない.
 あらかじめ嘘であると開き直って書かれたものに嘘臭いと文句を言っても詮無いことだが,「作品」としては,嘘の中にもリアリティが必要だと思う――そのリアリティをもたらすものを「技巧」に含めるべきかどうかは別にしても.
 例えば往年のひさうちみちおは偽セックスルポをよく書いていたが,ひさうちの場合は虚構の中にもどうしようもない己の性癖のリアリティが漏れ出していて,そのヘンタイ性が演技ではないことを告げていた.
 しかし,これまで読んだ範囲では,樋口の小説にそうしたリアリティは感じられない――ヘンタイとして信用できないのである.

○ルディー和子『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』(日経プレミアシリーズ 2013)
○ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』(文春文庫 1998.親本 1990)
○原朗『日清・日露戦争をどう見るか』(NHK出版新書 2014)
○西谷大『歴博ブックレット18 食は異なもの味なもの』((剤)歴史民俗博物館振興会 2001)
○孫崎享『戦後史の正体』(創元社 2012)
○同『日米開戦の正体』(祥伝社 2015)
○ドリヤス工場『有名すぎる文学作品をだいたい10ページくらいの漫画で読む。』(リイド社 2015)
○三上延『ビブリア古書堂の事件手帳 5』(メディアワークス文庫 2014)
○アゴタ・クリストフ『悪童日記』(ハヤカワepi文庫 2001.原著 1986)
△ 大濠藤太,沢野健草 『路上のうた ホームレス川柳』(ビッグイシュー 2010)
△東田直樹『風になる――自閉症の僕が生きていく風景』(ビッグイシュー 2012)
○オリバー・ストーン,ピーター・カズニック,乗松聡子『よし、戦争について話をしよう。戦争の本質について話をしようじゃないか オリバー・ストーンが語る日米史の真実』(金曜日 2014)
○鈴木智彦『ヤクザと原発』(文春文庫 2014.親本 2011)
○ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』(文春文庫 1998.原著 1990)
○原郎『日清・日露戦争をどう見るか』(NHK出版新書 2014)
○西谷大『食は異なもの味なもの 食から覗いた中国と日本』(歴博ブックレット 2001)
△東山彰良『流』(講談社 2015)

△筒井康隆「モナドの領域」(『新潮』2015年10月号掲載)
 大半が(通称)GODのご託宣から成る思弁小説だが,GODは作者の自我の投影にしか見えない.筒井センセイ,神様のつもり?!――そうだったりして.

映画
△リチャード・リンクレイター『6才のボクが、大人になるまで』(米 2014)
○川村泰祐『海月姫』(日 2014)
○武正晴『百円の恋』(日 2014)
○安藤桃子『0.5ミリ』(日 2014)
△ティム・バートン『ビッグ・アイズ』(米 2014)
×山下敦弘『味園ユニバース』(日 2015)
△ソフィー・タチチェフ『家族の味見』(仏 1976)
○ジャック・タチ『ぼくの伯父さん』(仏・伊 1958)
△ルネ・クレマン『左側に気をつけろ!』(仏 1936)
△ニコラス・リボウスキー『ぼくの伯父さんの授業』(仏 1967)
△ジャック・タチ『ぼくの伯父さんの休暇』(仏 1953)
△本広克行『幕が上がる』(日 2015)
△松尾スズキ『ジヌよさらば〜まほろば村へ〜』(日 2015)
○山崎貴『寄生獣 完結編』(日 2015)

ケージが「目的なしに書く(作曲する)こと,純粋に書くこと,また純粋に聴くことは可能.それらの行為は互いに無関係.」というのはそのとおりだが,これがイデオロギーになってしまってはまずい.
ケージが夢想していた「社会」は有用性(ユーティリティ)の意識を共有したユートピアなのか......何かロハス臭い.

イベントとアクシデントは対立ではなく並存するという考え方が小山博人のイベント=アクシデントなのか?

2016年

○三上延『ビブリア古書堂の事件手帖 6』(メディアワークス文庫 2014)
△六田登『世界は二人のために、二人は世界のために』(幻冬舎 2013)
△大沼紀子『真夜中のパン屋さん 午前2時の転校生』(ポプラ文庫 2012)
△同『真夜中のパン屋さん 午前3時の眠り姫』(ポプラ文庫 2013)
△渡部直己『本気で作家になりたければ漱石に学べ!』(太田出版 1996)
○平出隆『猫の客』(河出文庫 2009.親本 2001)
△深沢七郎『生きているのはひまつぶし』(光文社 2005)
△下村敦史『闇に香る嘘』(講談社 2014)
△深水黎一郎『最後のトリック』(河出文庫 2014.親本『ウルチモ・トルッコ』講談社ノベルス 2007)
△甲野善紀・田中聡『身体から革命を起こす』(新潮文庫 2007.親本 2005)
○清野とおる『ウヒョッ!東京都北区赤羽 5』(双葉社 2016)
○浅木原忍『ミステリ読者のための連城三紀彦全作品ガイド 増補改訂版』(Rhythm Five 2015)
△増田こうすけ『ギャグマンガ日和 巻の15』(ジャンプコミックス 2014)
△同『ギャグマンガ日和GB 1』(ジャンプコミックス 2015)

映画
△羽住英一郎『劇場版 MOZU』(日 2015)
○ルノー・バレ&フローラン・ドゥ・ラ・テューレ『ベンダ・ビリリ!〜もう一つのキンシャサの奇跡』(仏 2010)
○マイケル・ムーア『シッコ』(米 2007)
○同『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』(米 2009)
△ラリー・チャールズ『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』(米 2006)
△サーシャ・ガヴァシ『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち』(米 2009)
○想田和弘『牡蠣工場』(日 2016)

2016.03.12 GESO

タイトルGESORTING 202 Time is off my side.
記事No106   [関連記事]
投稿日: 2014/05/03(Sat) 11:12:39
投稿者geso < >
 「完成したらアップしよう」なんて思っていたらいつまでもアップできないことがわかったので,メモ書きでもアップすることにした.推敲なんかやってる時間はない...

本.
△海堂尊『ゴーゴーAi』(講談社 2011)
 副題「アカデミズム闘争4000日」.小説を地で行く...というか,小説の元ネタになった学会や官僚との闘いの記録.出版は震災前だが,震災の影響はあったのか/未だ書かれていないのかは,未確認.

○小池昌代『弦と響』(光文社文庫 2012.親本 2011)
 弦楽四重奏団のラストコンサートの模様をメンバーと関係者の独白体で描いた作品.小説的手法は陳腐だが音楽は慥かに聞こえてくる.

△後藤忠政『憚りながら』(宝島社文庫 2011.親本 2010)
 元ヤクザの回想録.印税を全額震災被災者に寄付するのはエライとしても,本当にヤバイことは隠して書いてる感じ.

○諸星大二郎『妖怪ハンター 稗田の生徒たち(1) 夢見村にて』(集英社ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ 2014)
 傑作.

○森茉莉『私の美の世界』(新潮文庫 1984)
 何にせよ基盤――この人の場合は「文豪のお嬢様」――が強固な人は強いというか,無敵.意固地だけど可愛い茉莉さん.

○吉行和子『浮かれ上手のはなし下手』(文春文庫 2013.親本 2010)
 無境界の女優.母親以外の身内は皆さん亡くなったのね...

○品川正治『激突の時代 「人間の眼」vs.「国家の眼」』(新日本出版社 2014)
 著者は昨年死去.こういうしっかりした<大人>が居なくなるのは惜しい.軍産複合体の中心 AIG(American International Group)の話が不気味.

○石井光太『絶対貧困』(光文社 2009)
 「貧困学」を提唱する著者が世界の貧困地帯を巡って最下層の人々と暮らしたルポ.富める者が進んで清貧を選ばない限りは貧困問題は解決しない...でもまぁ無理だろな.

△川崎草志『弔い花 長い腕III』(角川文庫 2014)
 三部作の完結編.悪くないが,回を追うにつれてどうしても勢いは落ちてくる.


○連城三紀彦『小さな異邦人』(文藝春秋 2014)
 ほかの単行本未収録作品は版元がバラバラで纏められる可能性は低いから,おそらく最後の短編集になってしまうだろう.後は長編が何とか出ないものか... 表題作は誘拐ものの傑作.「無人駅」は『ロシアン・ルーレット』あたりの山田正紀ふう.やっぱり巧い「ミステリ作家」なのだった.

△犬飼六岐『蛻』(講談社 2010)
 尾張藩江戸下屋敷内に実在した「御町屋」と呼ばれる人工の宿場町では,掻き集められた町人たちが架空の生活を営んでいた.そこで起こるはずのない/起こってはならない連続殺人事件が起こり...という設定は間違いなく面白いけれど,ミステリとしては物足りない出来.

○東村アキコ『かくかくしかじか 1』『同 2』(集英社 2012,2013)
 美大出身でなくても楽しめる(苦しめる?)自伝漫画.作者の恩師 日高先生のキャラが,全く共感できないのに圧倒的な魅力.

○ベン・ワトソン『デレク・ベイリー インプロヴィゼーションの物語』(以下「ワトソン本」.工作舎 2014.原著 2010)
・ザッパ研究者でもある著者は,アドルノ,フランクフルト学派,状況主義の影響を受けているというだけあって,非常に<偏向>した書き方になっているが,そこはむしろ楽しむべき.そもそも中立的な立場などあり得ないし.
・ベイリーや周辺のインプロヴァイザーの出自/出身階級の問題(これが存外に大きい)/「めかくしジュークボックス」で全然当てられず癇癪を起こしそうになるベイリー/偏屈なユーモリストとしてのベイリー/多数の関係者インタヴュー(引用を含む)から知る様々な即興観/裏話満載なところ等々,すこぶる面白い.ザックリ一気読みしたけどジックリ再読したい/ズッと持っていたい/ゼン即興演奏ファンに薦めたいゾ,と.
・ベイリーが理想としていた即興演奏は<ヒトの知性>と<オオカミの時間>を共存させるという,そもそも不可能な試みだったのではないか?と想う今日この頃,皆様如何お過ごしでしょうか?
・ライヴやアルバムのレヴューに当たり,著者ができるだけ正確な描写を心懸けていることは伝わってくるが,それでも比喩が無理矢理だったり印象批評に留まっているように感じられるのは,音楽を言葉で説明することの困難さ(あるいは不可能性)によるのか.
・木幡和枝の訳文は明解で読みやすい.だが,これだけ日本語に長けた人でも「すべからく」を誤用しているのにはちょっとガッカリ.
・本書の出版に刺激を受けたのか,ベイリーの音源を聴く会が発足↓.

イヴェント.
△「デレク・ベイリーを聴く会 Vol.01」モデレーター 泉秀樹・渡邊未帆・山崎春美・石原剛一郎 ゲスト 竹田賢一・木幡和枝(吉祥寺 Sound Cafe dzumi 3/29)
・モデレーターって初めて聞いたけど,何?と思ってググったら,
 1a仲裁[調停]者. b調節[調整]器. 2a(討論会などの)司会者. b《主に米国で用いられる》 (町会などの)議長. 3[しばしば M[N16-A12A]] 【キリスト教】 (長老派教会の)教会総会議長. 4【物理学】 (原子炉の中性子の)減速体.
 だそうである.本件の場合は多分4だろう.
・「ベイリーが遺した250枚以上もの関連アルバムを(中略)年代ごとに1枚ずつじっくりと聴き込んで」いくというのだが,1枚の収録時間を平均40分と見ても250枚聴き通すには約167時間掛かる.1回の会合は約2時間だから,単純計算すれば全84回,月イチペースで7年間続けないと聴き終わらないわけで,これは到底無理だ.
 そこは現実的に「重用と思われるアルバムからピックアップして年代順に聴き込む」とするしかないし,1回目の「聴く会」は実際そのような形で進行した.
・レジュメには掛ける予定の1960年代音源――LP,CD,CD-R等計14枚――がリストアップされていたが,やはり全部聴くのは無理で,実際に掛かったのは次の7枚,それも各アルバムから1トラックずつ――しかも7は途中でFO――だった.
 なお,4はオーネット・コールマンをフィーチュアしたオノ・ヨーコのアルバムから参考として掛けたもので,ベイリーとは無関係.

 1. 1965, "Rehearsal extract", Incus CD single 01. Joseph Holbrooke Trio (with Gavin Bryars b: Tony Oxley ds).
 2. 19 March 1966, "live at Club 43, Manchester, UK". audience recording. Lee Konitz Quartet (with Lee Konitz as: Gavin Bryars b: Tony Oxley ds).
 3. 18 Feb. 1968, "Karyobin", Chronoscope CPE2001-2. Spontaneous Music Ensemble (with Kenny Wheeler tp, fl-h: Evan Parker ss: Dave Holand b: John Stevens ds).
 4. 29 Feb. 1968, "AOS" from "Yoko Ono/Plastic Ono Band". Apple SAPCOR 17. Yoko Ono vo: Ornette Coleman tp: Edward Blackwell ds: Charles Haden b: David Izenzon b.
 5. 28 Aug. 1968, "Infraudibles" (composed by Herbert Br&#252;n) from "Cybernetic Serendipity Music", ICA ICA 01. Various (with Bernard Rands czimbalum: Gavin Bryars b: Richard Howe fr-h: Evan Parker ts).
 6. 3 Jan. 1969, "Stone Garden" from "The Baptised traveller", CBS (GB) 52664/Sony-Columbia 494438. Tony Oxley Quintet (with Kenny Wheeler t, fl-h: Evan Parker ss: Jeff Clyne b: Tonny Oxley ds).
 7. June 1969, "European echoes", FMP 0010/UMS/ALP232CD. Manfred Schoof (with Arjen Gorter, Buschi Niebergall, Peter Kowald b: Han Bennink, Pierre Favre ds: Alexander von Schlippenbach, Fred Van Hove, Ir&#232;ne Schweitzer p: Evan Parker ss: Gerd Dudek, Peter Br&#246;tzmann ts: Paul Rutherford tb: Enrico Rava, Hugh Steinmetz, Manfred Schoof tp).

・<年代順に聴く>という非ポストモダン的な聴き方には共感.「誰と誰とがどういう順序で出逢ったか」という<歴史>の検証は,やはり重用.
・この時期のベイリーの演奏は,竹田賢一が指摘したように慥かにアンサンブルの中で<異物感>を放ってはいるが,制約下でのフリーフォームという印象.共演者たちの出自が演奏全体の雰囲気を特徴づけているため,多くはフリージャズの範疇に入る演奏だ――サイバネティック・セレンディピティ・ミュージックは電子音楽系だけど.ベイリーのギターは,集団の中にあって,こう言っちゃ何だが<効果音>的機能を果たしているように聞こえる.
・トニー・オクスリーds,ギャビン・ブライヤーズbと組んだジョゼフ・ホルブルック・トリオ(英国マイナー作曲家の名を借りた,ベイリー最初のグループ)は「マイルス・モード」を演奏しているが,ベイリーのギターは「最初と最後にテーマを演奏しとけば,真中辺りの演奏はモードもテンポも無視して構わないでしょ?」と言いたげ.10分に1回濡れ場を入れさえすれば後は好きに撮って構わなかった往年のロマンポルノを連想.そういう点では<制約つきのフリー>.
・ちなみにワトソン本所収のオクスリーのインタヴューを読むと,ジョゼフ・ホルブルック・トリオは当時(1963〜1966),日本のティポグラフィカを想起させる拍子分割の実験をさんざん試みていたらしく興味深い.
・ベイリーは楽曲も演奏しているが,原曲に忠実にやっているとは思えない.また,コール・アンド・レスポンス的なやり取りもしているけれど,フレーズを応酬するようなオーセンティックなものではない.その辺りに,後の<非イディオマティック的な>即興演奏の萌芽が窺われる.
・横井一江は自著『アヴァンギャルド・ジャズ――ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷 2011)の中で,ベイリーが,自著『インプロヴィゼーション――即興演奏の彼方へ』(工作舎 1981.原著 1980)で提唱していた<非イディオマティックな即興演奏>がドグマとして一人歩きすることの危うさを訴えていたと思う(うろ覚え).そのとおりかも.
 ベイリーが問題にしていたのは演奏そのもの――<結果>ではなく<過程>――以外ではなかったということに注意.<非イディオマティックな即興演奏>は,終了した演奏やその録音物といった<結果>に対して求めるべきものではなく,また,それ自体を<目的>とするものでもない.
・意外な演奏家がベイリーファンだった↓.
 h t t p : / / e - d a y s . c c /(注:ここまでの文字はベタ打ちに直す)music/column/takada/201003/30432.php
・ジョン・ケージ/ダニエル・シャルル『小鳥たちのために』(青土社 1982.原著 1976)を読むと,ケージとベイリーの意外な類似点に気付く.
 例えば:感情から自由になること/自我を開放すること/行為の結果に対する無関心/「あらゆる音に対して開かれた耳には,すべてが音楽的に聞こえるはず,私達が美しいと判断する音楽だけではなく,生そのものであるような音楽」/フリージャズが観念と音楽的関係の世界に閉じ込められているという批判(コール&レスポンスの重視や,時間的なビート感覚を保持することで音楽の範疇に留まっていること)/ダンサー(舞踏家)との共演における一見無関係な関係/etc.
 相違点ももちろんある.例えば<偶然>について,ピーター・ライリーはケージ型の偶然は意図して実践するある種の慣性であるのに対して,ベイリー型の偶然は抑圧から解放までの広い範囲にわたる作業課題であると述べる(ワトソン本).偶然を技法化すること自体が矛盾だと私も思うが,これは作曲家と演奏家(取り分けギター)という立場の違いに由来するものかも知れない.
・作品をつくる<方法>や<手段>に作者の署名が入ることでそれ自体が作品化してしまうことには,疑問を抱かざるを得ない.
・ちなみに,次のイヴェント↓と重なったため「聴く会 Vol.02」には行けなかった.

△「不図(ふと) 小山博人とは何ものだったのか」(高田馬場プロト・シアター)
・2010年7月に急逝した小山を偲ぶイヴェント.何で今頃?という思いもあるが,諸事情あったようだ.
・出演:入間川正美(チェリスト)/湯田康(演劇)/morning landscape(演劇)/荒井真一(パフォーマンス)/小林保夫(演劇)/IZA(シンガーソングライター哲学者)/海上宏美(批評)/多田正美(元GAP,サウンド・エンカウンター)/3 l-in-es(河崎純,入間川正美,遠藤寿彦)[以上4/26].新崎博昭(イベントアクシデント'77-'11)/山田工務店(演劇ユニット)/鈴木健雄(サウンド・パフォーマー)/ONNYK/GESO/大熊ワタル(シカラムータ)/遠藤寿彦(ダンス/回路派)/竹田賢一(A-Musik)[以上4/27].肩書きはおおむね自称らしい.ぷふい.
・出演してしかるべき人――特に名を秘すが清水唯史――がスタッフの一人――誰とは言わぬが遠藤寿彦――と喧嘩しているせいで呼ばれていなかったり,スタッフの一人――匿名だが湯田康――に疎まれているにも拘わらず平然と来場し打上げにも参加する図太い奴――勿論園田佐登志――がいたり,人生いろいろである.
・自分の出番になるまでに見たそれぞれの実演は,海上宏美と新崎博昭と鈴木健雄以外は「小山博人とは何ものだったのか」という問題意識を感じさせない,いつもやっていることと変わりないのでは,と思わせるものばかりで,退屈さと苛立ちを覚えた――折角の機会なんだから,もう少し小山絡みの実演を工夫すればいいのに.
・もとより追悼も鎮魂も嘘臭くて嫌いな私としては,今回限りの「小山博人に関わる回想(あるいは回顧)及び検証」を試みた――失敗したか成功したかはどうでもよいが.
・小山がやっていた架空の(?)グループの正式名は「イヴェント・アクシデント7711」なのか「イヴェント=アクシデント7711」なのか「イヴェントアクシデント7711」なのか「イベントアクシデント7711」なのか...etc.「クレイジーキャッツ」「クレージーキャッツ」「クレイジー・キャッツ」etc.に通じる表記の曖昧さは戦略ならぬ戦略だったのか.EVENT=ACCIDENT,イヴェントとアクシデントは等価の謂と,私は思っていたけれど.「わざわざおいで戴いても何もおもしろいことはありません」は彼(ら)が遺した名キャッチコピーで,私の座右の銘の一つである.

映画.
△ジェフ・ワドロウ『キック・アス ジャスティス・フォーエバー』(米 2013)
 続編が本編を超えることはやはり難しい... 技術的向上とは関係ないことだから.

○佐々部清『東京難民』(日 2013)
 ホームレス役の井上順の演技が脂の抜けた感じが良かった.

△ジャン=マルク・ヴァレ『ダラス・バイヤーズクラブ』(米 2013)
 マシュー・マコノヒーの,役作りのために21キロ減量したという役者馬鹿ぶりを愛でる映画.

○ジョシュア・オッペンハイマー『アクト・オブ・キリング』(丁・諾・英 2012)
 インドネシアで共産主義者(及びそう見なされた人)たちを大量虐殺した本物のヤクザたちが,過去の虐殺を自ら再演する映画...の撮影ドキュメンタリー.悪夢のようだが目が離せない画期的作品.

○黒木和雄『竜馬暗殺』(日 1974)
 久し振りに再観.役者陣で魅せていたのだな.上映後の中川梨絵と後藤幸一のトークショーが楽しかった.

△山口義高『猫侍』(日 2014)
 北村一輝が役作りのために9本歯を抜いたのはこの映画ではないが,その役者馬鹿ぶりと,白猫の玉乃丞を愛でる映画.演出は駄目.

 阿佐谷 ラピュタの特集「わたしたちの芹明香」から2作.
○曽根中生『(秘)極楽紅弁天』(日 1973)
 この監督の明るさはロマンポルノにあっては貴重.

△白鳥信一『狂棲時代』(日 1973)
 ロマンポルノなるも根は真面目な青春映画.当時24歳の風間杜夫に18歳の浪人生役はちょっと無理あり.

2014.05.03 GESO

タイトルGESORTING 201 雪掻きとエントロピー
記事No104   [関連記事]
投稿日: 2014/02/15(Sat) 13:46:46
投稿者geso
×ジュゼッペ・トルナトーレ『鑑定士と顔のない依頼人』(2013 伊)
 <極上のミステリー>というキャッチコピーに騙された.全然意外性のないプロットだし,一方的な「騙し」が描かれるだけでコン・ゲームにもなっていない.美術ミステリ映画として『トランス』より面白そうだと期待していたのに,残念.

△想田和弘『選挙2』(2013 日・米)
 監督は被写体に普通に関与していてもはや観察者の立場からは逸脱しているから,「観察映画」というキャッチコピーは止めてもいいのでは.音楽とナレーションを排しているという特徴はあるけど,普通に「ドキュメンタリー映画」といえばいいんじゃないか?
○同『Peace』(2011 日)
 と思ったら,『選挙2』よりも古い本作――介護と猫を巡るドキュメンタリー――では,今まで観たうちでいちばん被写体に話し掛けていた.
 観察映画「番外編」とのことだが,改めて「観察」の意味を考えさせられた.通常「観察」は「事物や現象を注意深く組織的に把握する行為」(ブリタニカ百科事典)を意味するが,想田の「観察」は「組織的に把握する」ことを避けている.先入観を排して事象そのものの「一瞬」に立ち会おうとする意思.「観察映画」ではなく「直観映画」.

○石井裕也『川の底からこんにちは』(2010 ユーロスペース/ぴあ)
 平凡なOLが病に倒れた父親に呼び戻されて田舎のシジミ工場を継ぐという設定に目新しさはないが,初めは全然いいところなしと思わせながらいつの間にか共感を抱かせる満島ひかりのリアルな演技や,真面目ぶりと巫山戯ぶりのバランスが絶妙なオフビートギャグの連続に引き込まれる(ちょっとカウリスマキっぽい).脚本と演出さえ良ければ低予算でも面白い映画は作れるという好例.

△池田敏春『女囚さそり 殺人予告』(1991 東映ビデオ)
 岡本夏生が4代目松島ナミを演じたVシネマ.伊藤俊也版へのオマージュとしてハチャメチャ振りは受け継いでいるが,演技力不足の岡本夏生には荷が重かった...

△黒澤明『羅生門』(1950 大映京都)
 ちゃんと観たのはひょっとしたら初めて.『羅生門』の設定も借りているが原作は『藪の中』.多視点による作劇法は当時としては新鮮だったのだろう.
 気になったこと: いくら平安時代でも,屍体の刀傷が太刀によるものなのか短刀によるものなのかの区別くらいはつくんじゃないのか(いくら短刀が紛失していたとはいえ)? 最後に棄て児の赤ん坊を引き取った木樵り(志村喬)はその後ちゃんとその子を育てたのかな?

○道尾秀介『月と蟹』(文春文庫 2013.親本 2010)
 登場人物の心情の揺らぎを胸苦しいほど生々しく描いた純文学寄りの長編.久し振りに読んだら格段に巧くなっていたので吃驚.直木賞は当然かも.
 主人公を中学生に設定したら生臭くなりすぎるから小学六年生に設定したのかも知れないし,舞台は平成の鎌倉なのに昭和っぽい雰囲気を醸し出しているのも狙ったことかも知れないが,同業者に「道尾の文節の構築には」「あざとさは皆無である」(伊集院静の解説)と信じ込ませるくらいだから,計算ずくであったとしても大した伎倆ではある.
 という訳で,気になったので道尾作品を続けて読んだ.

○道尾秀介『カラスの親指』(講談社文庫 2011.親本 2008)
○同『龍神の雨』(新潮文庫 2012.親本 2009)
○同『片眼の猿』(新潮文庫 2009.親本 2007)
 どの作品も見事でした.
 『カラスの親指』はコン・ゲーム小説とも言えるが,ミスディレクションの手口からミステリファンの読者を想定していると思われる.
 しかし,『龍神の雨』あたりからは,ミスディレクションは使ってもミステリファンに限定しない読者を想定しているようだ.『月と蟹』もそうだが,純文学っぽい表題――未読作品では『球体の蛇』や『光媒の花』――が増えていることからもその傾向は窺える.ミステリに括られるのが嫌なのだろう.
 『片眼の猿』は読み始めてすぐ既読だったことを思い出した.4年前に読んで,震災後処分していたのだった.癪ではあるが,ダブり買いはままあることだし,再読しても楽しめたのでよしとする.改めて感じたのは伊坂幸太郎のセンスとの近似性.『片眼の猿』にはそれが顕著で,『アヒルと鴨のコインロッカー』などが想起される.

○ゲイル・キャリガー『ソフロニア嬢、発明の礼儀作法を学ぶ』(ハヤカワ文庫FT 2013)
 スチームパンク乗りのラノベ.こういうキャラがはっきりしたシリーズものは,何も考えずに楽しめばよい.

○久住昌之・谷口ジロー『散歩もの』(扶桑社文庫 2009.親本 フリースタイル 2006)
 『孤独のグルメ』のコンビによる散歩エッセイ漫画.谷口の細密な絵が文庫版の限界に挑むかのような「原画再現力」をもって採録されたのは,印刷所の担当者が『孤独のグルメ』の大ファンで命懸けでやってくれたお陰だという,イイ話.最終話に出て来る川上宗薫の絶筆「死にたくない!」が読みたくなった.

○諸星大二郎『瓜子姫の夜・シンデレラの朝』(朝日新聞出版 2013)
 久々に諸星の新作が読めた.それだけで嬉しい.

○清野とおる『ウヒョッ!東京都北区赤羽 第1巻』(双葉社 2013)
○同『ウヒョッ!東京都北区赤羽 第2巻』(双葉社 2013)
 Bbmfマガジン版の9巻目がなかなか出ないなと思っていたら,そういう訳だったのか!と読んで吃驚の双葉社版.全くパワーは落ちていない,ただ事ではない面白さ.

△南條竹則『人生はうしろ向きに』(集英社新書 2011)
 ホラティウス,吉田兼好,チャールズ・ラム,デイヴィド・ヒュームらを引いて,進歩主義を「根拠のない野蛮な思想」として退け,「うしろ向き」に生きることを慫慂する書.私も「Nothing changes for the better.」には同感だが,進歩主義者たちを論破するにはもう少し詳細な内容にしないと,単なる反動主義として無視される危惧もある.

○佐藤正午『身の上話』(光文社文庫 2011.親本 2009)
 「不倫相手と逃避行の後、宝くじが高額当選。巻き込まれ、流され続ける女が出合う災厄と恐怖とは。」(カバー裏より).
 たまたまテレビドラマ版『書店員ミチルの身の上話』の方を先に観たため「語り手」に仕掛けられた工夫に驚く楽しみが失われたのは残念だったが,覆水盆に返らず... だが,文章が非常に巧みなので,筋書きが分かっていても問題なく楽しめた.振り返ってみれば,原作にほぼ忠実だが独自設定を加え細部を膨らませたドラマ版もかなりの出来.

○乾緑郎『完全なる首長竜の日』(宝島社文庫 2012.親本 2011)
 植物状態の患者とコミュニケートできる医療器具が開発された世界という設定はSFだが,展開はマジックリアリズム的.途中で結末の予想はついたが,それでも面白かった.今まで読んだ「このミス」大賞受賞作の中ではベスト.

○福田和代『怪物』(集英社文庫 2013.親本 2011)
 これも<匂い>にまつわる小説.<死>の匂いを嗅ぎ取れる定年間際の刑事,その特殊能力――勿論誰にも信じてもらえないから秘密――によって真犯人と見抜かれるも証拠不十分で逮捕されなかった幼女誘拐殺人の元容疑者,屍体を完全に処理できるテクノロジーを罪悪感なしに使える<怪物>のような青年.彼らが結び付くとどうなるか.
 「先の読めない展開の釣瓶打ち」(三橋曉の解説)というのは嘘で先は読めるが,それでも最後まで目が離せないのは,本作が謎解きのミステリではなく,ヒトが隠し持つ<怪物性>を描くサイコサスペンスとして秀逸だから.
 気に入ったので,テレビドラマ版(読売テレビ 2013)のDVDも観たが,こちらは×.尺やキャスティングによる制約もあろうが,単純化しすぎた脚本と,<正義>が復権するかのように書き換えられたエンディングが,原作の良さを台無しにしている.佐藤浩市――定年間際には見えないので左遷間際の刑事という設定に変えられている――の熱演はまだしも,向井理はツルンとしすぎて闇を抱えた<怪物>には見えずミスキャスト.

○我孫子武丸『さよならのためだけに』(徳間文庫 2012.親本 2010)
 DNA診断を活用して組合せの良否をランク付けする結婚仲介企業――その創始者は流石に公言はしないものの,最大多数の最大幸福と優生主義が人類の未来のために正しいと信じている――が政府と結託して世界を牛耳っている近未来が舞台.そこで「特A」の組合せとされたカップルが新婚直後に相性が合わないことに気付き,成田離婚しようとするも様々な妨害に遭いながら「共闘」する... 先の展開は読めるけれども面白い.絵空事とは思えない設定のディテールに説得力あり.

 という訳で,先の展開が読めても楽しめる小説がたまたま続いた.要はプロットに意外性がなくてもディテールと文章力で引っ張ることは可能だという,当たり前のことなのだが.

△樋口毅宏『さらば雑司ヶ谷』(新潮文庫 2012.親本 2009)
 サブカル系に偏った博覧強記ぶりで一部で人気があるらしい作者のデビュー作.巻末のネタリストに舞城王太郎の名前はないが,舞城の初期作品が持つスピード感を想起させるドシャメシャなピカレスク小説.良くも悪くもB級映画を小説化したような底の浅さを感じるが,そこが良いという人もいるんだろうな.

△城平京『名探偵に薔薇を』(創元推理文庫 1998)
 数多のミステリを研究したうえで敢えて大時代的な作品を書く反時代的姿勢には好感が持てる.そういえばやはり反時代的なミステリを書き続けた加賀美雅之は去年亡くなったんだっけ...

○天藤真『大誘拐』(創元推理文庫 2000.親本 カイガイ出版社 1978)
 誘拐ミステリの古典.営利誘拐された大富豪(聡明な田舎のお婆さん)が犯人グループ(間の抜けたムショ仲間3人組)を指導して(!)警察と破天荒な攻防を繰り広げる.現在では使えそうにないトリックも多いが,今読んでも十分に面白い.久々に爽やかな読後感.

○赤江瀑『八雲が殺した』(文春文庫 1987.親本 1984)
 泉鏡花賞受賞の表題作を含む短編集.皆川博子の旧作・新作が続々刊行されている昨今,皆川と並ぶ幻視者でありもはや新作を読むことは叶わない赤江瀑の全集が出ることを切望.

●前回の続き
 清水義範『迷宮』(1999)と貫井徳郎『微笑む人』(2012)の両作品は,「犯人はほぼ確定している――自供も得られている――が動機は異常と見なされる殺人事件に興味を持った小説家が,ノンフィクション作品として纏めるべく取材を進める過程を描く」というプロットが共通している.
 こうしたプロット自体は特に珍しいものではなく,例えば折原一の複数の作品にもあったと記憶するが,折原作品と異なるのは,両作品とも「叙述トリック」を排している――その意味では設定上ストレートなミステリである――という点.
 より重要なのは,茶木則雄による清水作品の解説文から引用すれば,「犯罪報道における「事実」とは何か。人は、自分に理解できる「事実」を捏造し、勝手に理屈を付けたがっているだけではないか。人間の行動には、言葉では説明できない部分がある。人の心の奥底にある真相は、他人にはそう簡単に、わかるものではない」というテーマが,両作品に共通していることである.
 両作品とも犯人の<真意>という存在自体に疑問を投げ掛けており,ミステリとしては掟破りとも言える訳だ.
 しかし,プロットとテーマが共通しているのは偶然の一致であって,貫井が清水作品を盗作をしたとは思えない.
 それは,『微笑む人』の刊行によせて,「既存のミステリーとはまるで似ていない」「言霊がぼくに書かせた作品」であり,「読者が無意識に抱いてしまう、物語への期待」を「粉々に打ち砕くだろう」と貫井が自負していることから,彼が清水作品を未読だと推測されるからである... 類似する先行作品を「知らなかった」とあっては,ミステリ専業作家として不見識の誹りを免れないかも知れないが.
 両作品の最大の相違点は,清水が結末を「ミステリ小説」の内部に着地させようとしたのに対して,貫井はその外部に着地させようとしたことだろう.
 どちらの試みが成功しているかの判断は読者によって異なるであろうが,私はいずれの結末にも満足できなかった.一読者の我が儘に過ぎないが,いずれでもない着地点があり得たのではないか――それが読みたかった――という思いが強いのだ.

2014.02.15 GESO

タイトルRe: GESORTING 200 師走の覚書
記事No103   [関連記事]
投稿日: 2013/12/29(Sun) 20:42:18
投稿者あかなるむ
 ご無沙汰しています。

> ●降誕祭の夜こっそり口ずさんだ<酸鼻歌>
 NY大停電のことを思い出し、毎年12月24日の午後8時から25日午前8時まで東京で大停電・インフラ喪失を実行したら少子化に歯止めがかかるのでは無いか、などと不謹慎なことを考えたあかなるむでした。

・「祈祷の書」1995/12/21より

あなたが悪行の種を蒔けば
神はカラスを使わしてその種をほじる
あなたが善行の種を蒔けば
神は鳩を使わしてその種をほじる

あなたがどのような行いの種を蒔いても
神はあなたの種をほじる
神は常に共にいる
ああめん


あなたが悪徳の肉を炙れば
神は鳶を使わしてその肉を攫う
あなたが善行の肉を焼けば
神は鷹を使わしてその肉を攫う

あなたがどのような行いの肉を焼いても
神はあなたの肉を攫う
神は常に共にいる
ああめん

タイトルGESORTING 200 師走の覚書
記事No102   [関連記事]
投稿日: 2013/12/29(Sun) 19:42:13
投稿者geso
●降誕祭の夜こっそり口ずさんだ<酸鼻歌>

 諸人ころびて 向かえません
 久しく待ちにし 主は来ません
 主は来ません 主は、主は来ません

 悪魔と一夜を 現忘れ
 虜となりせば 主は来ません
 主は来ません 主は、主は来ません

 この世の闇路を 照らせません
 妙なる光の 主は来ません
 主は来ません 主は、主は来ません

 萎めるぺにすに 花を咲かせ
 恵みの露置く 主は来ません
 主は来ません 主は、主は来ません

 (以下略.<酸鼻歌>はあかなるむの造語.

○麻耶雄嵩『隻眼の少女』(文藝春秋 2010)
 何よりも<吃驚>したくてミステリを読んできたけれど,擦れてしまった所為か驚くことは滅多になくなってしまった.だから本作は久々に嬉しい驚きだった.
 帯の惹句「古式ゆかしき装束を身にまとい、美少女探偵・御陵みかげ降臨! 究極の謎 究極の名探偵 そしてちょっぴりツンデレ! 云々」にも騙された...そんな甘い作品ではない.
 アンチにもメタにもSFにも叙述トリックにも逸脱せずあくまで新本格の領域に踏み留まりながら次々と予想を裏切るというのはかなりの力業に思えるが,この著者はデビュー時から大胆だったから,さほど不思議でもないか.
 普通の(≒陳腐な)小説に較べれば非常識な設定であるが,本格ミステリはもとより人工美の世界なんだから,<非常識>という言葉は何の非難にもなるまい.

○日垣隆『偽善系』(文春文庫 2003.親本 2000・2001)
 著者の言説は<右>からは<左>と思われ,<左>からは<右>と思われそうだが,理不尽なことが大嫌いで糾弾しているだけで,右でも左でもなさそうだ.きっちりデータを集めて書いている強みからか,著者の書き方にブレはない.
 是々非々でしか判断できない私には賛同できる論もあればできない論もあるけれど,理不尽を正そうたってなぁ...ストレス溜まるだろうな,と思う.
 理屈や理性というものが存在し――私は想像上の産物だと思うが――大多数の人間にそれが備わっているのであれば,世の中の理不尽自ずと正され,<民主主義>など疾うの昔に実現している筈だけれど...
 「裁判がヘンだ!」の章にあった,(殺人の)「動機というのは、あくまで言葉である。言葉で表現されないものは、動機ではない。だから、犯罪をおかす前に動機なんて存在しないケースはたくさんある。」という見解には,賛同する.(続く)
 著者は資料代(主に本代)に月額最高40万円も使うそうだが,全部経費で落とすにしても,物書きの中でも並みではない.

△小池昌代『屋上への誘惑』(光文社文庫 2008.親本 2001)
 小池の本業は詩人だが,小説――例えば『黒蜜』――のほうが面白い.
 エッセイは初めて読んだけど,真剣かつナイーヴに<言葉>に拘る姿勢には,皮肉抜きに感心した.でも,哲学を<てつがく>,思うを<おもう>などと平仮名表記するセンスはあまり好きじゃない.
 「人殺し」と題されたエッセイには,殺人を犯して「どうしてこんなことになったのか、わからない」という妻に対して「問い詰めても仕方ないと思った」と語る夫を,裁判長が理解できない一幕を記録した公判記事が引用されている.
 「検察官も裁判官も、裁く側が、殺した理由を説明せよ、というなかで、この夫だけが、「問い詰めても仕方がない」として、妻を、罪そのもののなかへ、闇のなかへ送り返している。妻は、この闇のなかで、この先も自分の為したことを考えていくだろう。」
(続き)やはり殺人には「動機」がなければならないと――少なくとも司法上は――されているのである.
 ちなみに本書で一番気に入ったのは本人の文章ではなく,「母の怒り」と題されたエッセイ中に引用されている野見山朱鳥の次の俳句である.
 「犬の舌枯野に垂れて真赤なり」...いいネ!

○佐藤亜紀『激しく、速やかな死』(文藝春秋 2009)
 サド侯爵の「弁明」に始まり,タレイランが元愛人に送った手紙の体の「荒地」や,「戦争と平和」の脇役(クマ)の一人称で綴った「アナトーリとぼく」等を挟んで,ボードレールの独白「漂着物」で終わる7つの短編.
 仏蘭西革命を鍵言葉に,18世紀後半から1世紀弱のスパンで編年体で書かれた連作小説のように見える.
 「作者による解題」に現れる「...と考えていただいて構わない」とか「言わずもがなだが」とか「読んだことのある方なら...に気が付かれることだろう」といった言い回しからも「分かる奴にだけ分かればいい」という姿勢は明らかだが,いっそ仏蘭西語で書いて地元で出版すればいいのにと思えるくらい良く出来た(トルストイのパロディを含む)仏蘭西文学のイミタツィオーンである.
 最近の作品は未読なので分からないが,今までに読んだ著者の小説にハズレはなく,本作も(私の乏しい教養では充分理解できないものの)楽しめる内容になっている.
 ちなみに,ネットで「作品はいいのだが本人はどうも...」といった記述を複数目にしたので,久々にネットでサトウアキを検索したところ,ブログは実質休止状態だったがツイッターにはヒットした.
 で,読んでみたら...成る程,慥かに「敵」と見なした相手に対する著者の「狂犬」染みた罵詈雑言を見て,あの流麗な文章の書き手とこの汚い文句の吐き手が同一人物とは...と感慨深かった.くわばらくわばら...

△内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文春文庫 2011.親本 2008)
 内田センセーは最近もガンガン本を出しているけど,私はブクォーフの105円棚に落ちて来たものを主に読んでいる.数歩遅れで時事ネタを読むほうが<クール>に判断できるという利点もあるが,もとよりセンセーの著書は同工異曲で特に古びるということもなく,どれを読んでもどれから読んでも構わないので,たいへん重宝なのである.
 ヘーゲルやレヴィナスを称揚する一方でマルクス主義やフェミニズムを否定する記述――個人史に由来する反動かも知れない――はほかの著書でも繰り返されているが,<理屈>(理論,とは言うまい.)としてはどっちもどっちだという気がする.私の理解力が足りない所為なんでしょう,どうせ.
 ただ,センセー本人が「「話半分」の人」と自認し明記しているくらいだから,センセーが書いていることを読者が話半分に読んだとしても<フェア>であって,盲信する必要は毛頭ない――当然でしょ.
 センセーは,自身が構造主義文化人類学的に<クールでリアル>と捉えている自明の原理――原理が幾つあるのかは明示されていないが,一例を挙げれば,レヴィ=ストロースによる「親族の存在理由は」「親族の再生産である」という同義反復――に基づいて人間社会は動いており,それで大概の事象の説明はつくと考えているようだ――構造主義が定説化しているとは知らなかったけれど.
 センセーは,マスコミが飽きもせず投げ掛けてくる「どうして現実社会はあるべき状態になっていないのか?」という類の質問に対して,その都度律儀に答えている.
 それは,センセー自身によると,相手が「どういう答えを聞きたがっているか」を探り当てられるので,どんな質問(愚問?)に対しても「即答することができる」からだという.
 センセーは,理論と現実の齟齬なんてつまらないことに悩むこともなく,相手のニーズに応じて如何様にでも回答できる――なんとサービス精神豊かなことか.
 センセーは,朝日新聞を取るのを止めた理由について,「どのような問題についても「正解」があり、それを読者諸君は知らぬであろうが、「朝日」は知っているという話型に対する不快感が限度を超えた」からだと書いている.「朝日」をセンセーの名前に置き換えて,センセーの本を買うのを止める理由にしてもちゃんと成り立つ文章になっている――なんと気が利いていることか.
 内田センセーの著書は,氏を手本にして知的な物言いを処世術ないし芸として身を立てたい売文業志望者にとっても,氏の存在を似非文化人/反面教師の例として肝に銘じたい知的読者にとっても,有用なテキストだと私は思う.
 ちなみに私はセンセーの書くものが嫌いな訳では全くない.SF――speculative fictionのほうね――エッセイとして楽しめるものが結構あるので.
 本書の中では,「共同体の作法」の章が特に面白かった.
 例えば「食の禁忌」と題された文章では,トマス・ハリスの『ハンニバル』シリーズで人肉嗜食者レクター博士に法外な威信が与えられている理由を,「「人間を殺して食う人間」は「動物を殺して食う人間」に「罰」を下しているということである」と説明している.つまり,動物を殺して食う<罪>を,人を殺して食う<罪>によって<相殺>しているという解釈.面白いでしょ.でも定説になれるかな?
 なお,本書でいちばん残念だったのは,『ひとりでは生きられないのも芸のうち』という書名をまえがきで自画自賛している図.どう見てもダッセえタイトルだと思うが...

△貫井徳郎『微笑む人』(実業之日本社 2012)
 著者が「ぼくのミステリーの最高到達点です」と自負している一方で,読者の評価は賛否真っ二つに別れているようなので,好奇心に駆られて読んでみた.
 本作は,殺人犯が告白した動機が信じがたいものであったことに違和感を覚えた小説家が,「真実」を求めて関係者への取材を始め,初の「ノンフィクション」作品を書き進める過程を,一人称のドキュメンタリーとして描いた<偽ドキュメンタリー小説>である.
 折原一ふうの叙述ミステリとして着地するのかと思ったら,予想は全く裏切られた.ミステリの場合,予想を裏切られるのは大概快感なのだが,本作の場合は...
 これはミステリからの逸脱というよりも遁走,あるいはフィクションの(ノンフィクションに対する)敗北宣言なのか? 慥かにこの結末では,桐野夏生『柔らかな頬』の結末以上に賛否が分かれることだろう.
 桐野の場合は,著者の作品史においてミステリへの決別とも位置付けられる作品であり,その後の作品がミステリの枠から離れているのも納得できるのだが,貫井の場合は,本作を書いた後でぬけぬけと<普通>のミステリの世界へ戻って来れるのだろうか? 今度,最新長編『ドミノ倒し』を読んでから判断しよう.
 急に思い出したが,本作は清水義範『迷宮』に似ている.あの作品を読んだときはつまらないと思ったが,本作を読んだらあっちのほうが面白かったような気がしてきた.それは何故かを考えるために『迷宮』を再読してみよう.
 (続き)しかし,フィクションの場合は,殺人に納得できる動機がないとなると(サイコホラーなら兎も角)Whydunitは成立し得ない.私はミステリに限っては保守派なので,それではカタルシスが得られそうにないから,嫌だ.

●NHK
 傾向雑誌『週刊金曜日』の中で唯一面白い連載「高須芸能」で,高須基仁がNHKの「鎹思案」偏向路線を一刀両断している(2013年12月20日号).
 『あまちゃん』は「岩手県は宮城県に比べ、"津波"のダメージが少ないということで、三陸を舞台に」して,「複雑に入り組んだ東日本大震災のパラドックスを"じぇじぇじぇ"に集約して、単純化し、一刻ではあるが、東日本大震災の"身もフタもない状況"を忘却の彼方に追いやり、バラエティ化」したものだし,『八重の桜』は「福島原発から離れ、放射線量の点から安全地帯の扱い」である「会津若松を舞台に設定し、福島県の中で永く"国賊"扱いをうけた明治以降の"おんねん"を、新島襄の妻に光を当てることで晴らした」が「根柢にあるのは、明治天皇と会津藩の"和解"であり、安倍晋三首相の出自である"長州藩"との確執には片目をつぶり、まさに"半眼"的視点の歴史ドラマ化」を図ったもので、いずれも"まっ赤なウソ"のドラマである,という指弾.
 また,NHKが今年の紅白歌合戦にトーホク出身の司会者や"ドラマ役者"を大勢投入するのは「事実・真実から国民の目をそらせるかのような」キャスティングであり,目玉出演歌手に抜擢された泉谷しげるは「役者として生業を成功させ、強面でバラエティに出て、歌といえば「春夏秋冬」しかないというのに」「「フォーク時代の旗手」としてまっ赤なウソをつきとおし、いつの間にやら、反戦フォーク歌手っぽいフンイキさえ醸し出させている」「故・高田渡の足元にも及びつかず、単なるバラエティ強面暴言役者兼、歌うたいだ」と指摘する.
 やや穿ちすぎの感もあるが,ほぼ的を射ているのではないか.泉谷については全くそのとおりだと思うし,ドラマに関しては,クドカンも視聴者もNHKの狡知な罠に嵌まって結果的に踊らされていたんじゃないのかね?
 要は,慰撫と目眩ましによって愚民の怒・哀の高まりを抑え,喜・楽の境地に導こうという有難い政策の一環という訳である.分かりやすすぎて恥ずかしい.

△三池崇史『悪の教典』(2012.東宝)
 2時間ちょっとの長さに纏めたのはかなりの力業だと思う.原作よりも分かりやすくしすぎた所も端折りすぎた所もあるが,結果的に原作以上に無理の多い話になってしまった.
 主人公の度重なる凶行が用意周到なのか行き当たりばったりなのかよく分からない所が逆にリアルとも言えるのだが,あれだけ大胆なことを繰り返してもなかなかバレないのは相当(悪)運に恵まれているとしか言い様がないし,警察は何をやってるんだ,ここまで無能か?と,原作以上に戸惑わされた.
 ちなみに,最期の大量殺戮シーンの欠点は<残虐さ>にあるのではなく――残虐性を描いた映画を観て残虐性を非難するのは頓珍漢なことでしかない――殺し方と死に方の描き方がマンネリズムに陥っている所にある.もっと工夫が欲しかった.

△瀬々敬久『ヘヴンズストーリー』(2010 ムヴィオラ)
 予備知識がなかったので,途中までは刑法39条を扱った映画なのかなと思って観ていたが,全然違った.複数の突発的な殺人事件の被害者・加害者たちが絡み合い結び付き<救われる>迄を描いた「現代の『罪と罰』」ということだったらしい.
 最悪の体調で観たにもかかわらず4時間38分という上映時間を長いと感じなかったのは,飽きないように全体を9章に分けて作ってあるからだろう――まだ30分以上削れる気はしたが.
 悪い映画ではない.だが,ドキュメンタリー然として撮られた場面を含む概ねリアルな映像の中で,手描きアニメに差し替えられた鳥が羽ばたく場面や,死者たちが皆<天国>で平穏に暮らしているかのように描かれるラストには,違和感を覚えざるを得ない.
 個々の役者の演技はいいけれど,彼岸に救いを求めるかのような監督の思想?には疑問.信じる者は巣くわれる.

△トーク&「不屈の民」ライヴ!!!!! 出演 竹田賢一・大谷能生・大熊ワタル(吉祥寺Sound Cafe dzumi 12/15)
 3人による「不屈の民」の演奏15分+トーク1時間45分.
 演奏は可も無く不可も無し.
 トーク内容で興味深かったのは,大谷が本格的に演奏と音楽批評を始めた1990年代には,既にあらゆるジャンルの音楽が並列的に聴かれる<ポストモダン>的状況が現実と化している半面,音楽に関わる有用な資料やナヴィゲータが払底していたために,歴史を遡って勉強するのに苦労したという述懐.彼は「JAZZ」誌等のバックナンバーを古本屋で捜し,竹田の過去の文章を収集していたという.「『地表に蠢く音楽ども』は20年前に出して欲しかった」という恨み言には全く同感である.
 大谷や菊地成孔なら分かるが,竹田もまたバークリー・メソッドを面白いと発言していたのは,意外――でもないか.楽曲分析理論の一つとして――万能理論と勘違いしないで――使う分には慥かに有用かも知れない.ただし,記号論的還元はある意味気分をスッキリさせるとはいえ,それをもって面白い音楽が作れるかどうかは全然別の話である.
 ほかにも,竹田の若い頃の未公開ネタが幾つか聞けたのは興味深かったが,肝心の『地表…』の内容自体について殆ど語り合われかったのは残念.

●今月はほかに2つコンサートを観たが,想定内の演奏ばかりで面白くなかった.客には受けていたけど.
 今後は実演内容を再確認するために観に行くようなことはなるべく止めようと思う.

●汝の敵を愛せよ
 何故なら敵なくしては味方も味方の結束も生まれないから.
 敵にとっても事情は同じである.
 全ての者の敵になろうとする者は全ての者の敵となる.
 全ての者の味方になろうとする者も全ての者の敵となる.

2013.12.29 GESO

タイトルGESORTING 199 喪中葉書受取枚数過去最高記録
記事No101   [関連記事]
投稿日: 2013/12/08(Sun) 18:07:20
投稿者geso
○皆川博子『笑い姫』(文春文庫 2000.親本 朝日新聞社 1997)
 冒頭の,顔を施術されて笑い顔しかできなくなった子供の話が,山田風太郎のジュブナイル「笑う肉仮面」(1958年作)とほぼ同内容だったので一瞬吃驚したが,元ネタはヴィクトル・ユゴー「笑う男」(1869)であり,「推理小説の世界でも、このモチーフは形を変えて脈々と受け継がれており、江戸川乱歩の最高傑作といわれる長編『孤島の鬼』から、風太郎作品を経て、綾辻行人の中編集『フリークス』、皆川博子の伝奇小説『笑い姫』へと至る系譜を見ることができる。」と,日下三蔵が『山田風太郎ミステリー傑作選9 笑う肉仮面』の「解題」で書いていたのを忘れていたのだった.
 本作のような,山風や都筑が書き継いできた「読本」系を継承している小説は,今あるか? 木内一裕の近作かしら――未読だが.

△松井今朝子『道絶えずば、また』(集英社文庫 2012.親本 2009)
 『風姿三部作』完結編.<いい話>だが,ミステリ的な面白さは前2作に及ばず.

△近藤史恵『エデン』(新潮社 2010)
 『サクリファイス』の続編.ヒット作の続きを書くのはなかなか大変なんだなぁ...

○『日本文学全集 横光利一集』(集英社 1966)
 横光作品は「ナポレオンと田虫」(1926年作)しか読んでいなかったが,それを含む9編を収録した本アンソロジーは,ヴァラエティに富んでいて楽しめた.取り分けスパイアクション小説の一面も持つ「上海」(1935年作)は,<資本主義リアリズム小説>とでも呼びたくなる佳作――と言っても彼の立場は反共ではなく,<反プロレタリア文学>だと思う.
 登場人物が「世界同時革命」という幻想を巡って議論する場面は,1970年代まで繰り返されたアポリアの先例みたいで興味深いし,ちょくちょく出て来る格言めいた決め台詞――例「同じ人間が二人もいちゃ、辷るだけだよ」――も楽しい.
 横光が活躍した時代は日本にシュールレアリスム運動が輸入された時代と重なるはずだが,彼はその影響を受けていないようだ.リアリストだったから,マルキシズムに秋波を送りつつ幻想に溺れるプチブル的なシュールレアリスムに与することはできなかったのでは? もし影響を受けていたら,筒井康隆の「虚人たち」のような作品を書いていたかも知れない...などと妄想は膨らむ.

△諸星大二郎『蜘蛛の糸は必ず切れる』(講談社 2007)
 短編4作を収めた第2小説集.
 いつ来るとも知れない船を待ち続ける人々を描く不条理劇めいた「船を待つ」は,諸星漫画の味わいに最も近い.漫画で描くと地味すぎるから小説にしたのかも知れないが,小説にしてもやはり地味だった.
 「いないはずの彼女」は,複数の語り手による断章から成るが,「いないはずの彼女」――都市伝説的存在と説明されるが,幽霊と断じることはできない――自身の視点からも語られている点が面白い.
 「同窓会の夜」は,一人称の語り手の正体がキモとなるが,割と早い段階で判ってしまう所が残念.それでも最後まで引っ張る所は巧い.
 「蜘蛛の糸」のパロディである表題作は,原作よりも面白い.本作で描かれる<地獄>は,鬼たちによる徹底的にシステマティックな官僚社会であり,仏陀がただの気紛れで垂らした一本の蜘蛛の糸はその管理社会を無用な混乱に陥れる...「あの方も困ったことをしてくれる...」と嘯く,管理職としての閻魔大王.

○結城光考『衛星を使い、私に』(光文社文庫 2013)
 長編『プラ・バロック』の前日談に当たる短編集.結果的にほぼ連作となっている.相変わらず格好いい.

○同『奇跡の表現』『同II 雨の役割』『同III 龍<ドラゴン>』(電撃文庫 2005〜2006)
 結城のデビュー作にして第11回電撃小説大賞銀賞受賞作と,その続編2巻.
 猪の顔をしたサイボーグとして甦った元ヤクザの親分が,修道院で暮らす孤独な少女を護る <ライトノベル版レオン> (高橋京一郎).
 設定はいかにもラノベ臭いが,内容はごくシリアスな近未来ハードボイルドで,後のクロハシリーズとさほど掛け離れてはいないし,お約束の展開なのに読者を飽かすことなく引っ張る力量あり.
 これまたいかにもラノベなイラストに想像力を削がれるのと,続編が書かれる気配がなく未完結なのが残念.

○浅羽道明『右翼と左翼』(幻冬舎新書 2006)
 右翼と左翼の定義の歴史を辿るタメになるお勉強本.教科書的によく纏まっている.結論は「これからは右翼・左翼じゃなく,宗教と民族主義でしょ」という感じで,普通.
○日垣隆『すぐに稼げる文章術』(幻冬舎新書 2006)
 職業的物書きになるための実用書.
 成る程と思わせるノウハウが羅列されているが,「何かでお金を取ろうと思ったら、目安として最低1万時間はやり続けなければならない」とか「1テーマにつき最低本棚1本分(が目安)」といった指示には,ハードルを高くして若い芽を摘んでおこうという――商売敵を減らそうという――魂胆が透けて見える.
○坂東眞砂子『「仔猫殺し」を語る』(双風舎 2009)
 東琢磨・小林照幸,佐藤優との討論を含む.
 生まれたばかりの仔猫を崖から投げ捨てたことを書いたエッセイで筆者は徹底的にバッシングされたが,ちゃんと原文を読んだうえで非難した人はどれだけいたのか? 自分を含めて反省.
○堀井憲一郎『若者殺しの時代』(講談社現代新書 2006)
 1983年以降の日本資本主義が「若者」を食い物にする方向で進んできたことを,個人史に沿って立証した本.全くアカデミックではないが,概ね納得できる内容.
△大鶴義丹『昭和ギタン』(バジリコ 2005)
 自伝的エッセイ.あの二人の間の息子なのに(だから?)割と素直に育ったんだな.かなり正直に書いているように見えて,結構隠してることも多い感じ.人は遂に本当のことは書かない(by山本夏彦)のかも知れない.
△佐々木敦『「批評」とは何か? 批評家養成ギブス』(メディア総合研究所 2008)
 日垣本同様実用書といえるが,結局,対象は何であっても構成力とレトリックがあれば批評は書ける,と言っているように読める――私は何かオブセッションがない批評は,読んでも詰まらないと思うけど...
 「批評とは何か」と問いながら,批評と批判の違いについて何の論考もない点が物足りない.

 以上6人の著者は私の友人知人には割と敬遠されている面々だが,読んでみたら良くも悪くも楽しめた.
 矢張り食わず嫌いはいかんな...とはいっても,豊崎シャチョーみたいに敢えて石原慎太郎を読み直そうなどとは思わないが.

○池上永一『レキオス』(角川文庫 2006.親本 2000)
 オキナワン大風呂敷伝奇SF.ハードさと馬鹿っぽさが渾然一体となった疾走感がこの作者の魅力でしょう.

△第15回見世物学会総会(東京芸術大学美術学部第三講義室 11/10)
 見世物学会とは「1999年に学者と見世物興行の関係者の手によって設立された、産学協同の見世物研究団体である」(Wiki).一般客として初めて見物した.
 第1部は「種村季弘・小沢昭一・山口昌男 追悼放談会」で,パネラーは西村太吉(理事長.的屋 東京松坂屋当代),秋山祐徳太子(理事),真島直子(鉛筆画家),石塚純一(元札幌大学文化学部教授).出席予定だった田之倉稔(会長),高山宏(評議委員),坂田春夫(的屋 會津家六代目)らは欠席.種村の子息や山口の未亡人も客として来ており,故人の想い出を語った.
 種村は会員ではなかったらしいが,小沢は顧問,山口は理事に名を連ねていた.会発足の言い出しっぺは山口で,最後まで積極的に催しに出席していたが,種村や小沢はそれほど顔は出していなかったようだ.だが,この三人が――知名度と相俟って――学会の精神的支柱だったことは確からしく,今回は彼らを偲ぶ合同のお通夜のような催しだった.
 内容は,結局「面白い人たちだった」ということに尽きて,石塚が山口の学者としての業績――私はよく知らないが――を称揚していた以外は余りアカデミックな話題にならなかったところがむしろ清々しかったけれど,物足りなく感じた人もいたことだろう.
 第2部は「佐伯俊男・会田誠――変態絵画と見世物小屋の境界感覚――」と題したシンポジウムで,パネラーは福住治夫(元美術手帖編集長),佐藤一郎(東京芸術大学絵画科教授),坂入尚文(司会進行.見世物学会評議委員.東京松坂屋).
 坂入は,会田の担任教授だった佐藤に学生時代の会田のことを語らせ,福住には大盛況だった「会田誠展 天才でごめんなさい」及び同展に対する女性団体等からの抗議――うんざりさせられる野暮な正論――への感想を語らせ,自身は佐伯と会田の差異について僅かに語った.
 しかし,いずれも舌足らずな説明に留まり,掲げられたテーマを全く掘り下げ切れず,散漫なままにシンポジウムが終わったのは不満.
 そもそも会田や佐伯の絵に見世物を関連付けること自体,かなり強引である.佐伯の絵は,色使いや構図はポップなのに「見てはいけないもの」を描かずにはいられない作者の「業」が感じ取られ,それが「見世物」に通じないこともないが,会田作品における不具や奇形はファッショナブルなものにすぎず,あざとさしか感じ取れない.
 見世物学会という団体を見るのは初めてのことで,予備知識は殆ど無かったが,当日の観察結果+当日配布された「大見世物報」+Wiki等から得た情報から気になった点をランダムに挙げると:
・会長が病気で欠席していた
・西村理事長が会の「象徴的存在」として重用されていた
・秋山祐徳太子は会の潤滑油的存在に見えた
・鵜飼正樹(理事)を含む何人かの古参役員が近年相次いで脱退していた
・坂入尚文が会のヘゲモニーを握っている/握ろうとしているように見えた
・評議委員には田中優子・内藤正敏・中沢新一・松岡正剛の名も見えるが,実際にどの程度参加しているかは不明
 等々であるが,どこまでを「見世物」として研究対象に含めるかを巡って会員の意見が一致していないことは,当日配布された会報「大見世物報」の記事からも窺えた.
 種村らが死んだ後も,彼らの意志を継いで学会を継続・発展させていこう,と自らを鼓舞する雰囲気はあったが,会員間の意見の不一致が深刻な対立に至れば,会は分裂〜解体する可能性もある.だが,そうなったところで詮ないこと――どんな共同体にも必ず終わりが来るのだから.

○伊藤俊也『女囚さそり 第41雑居房』(1972 東映東京)
 一作目以上に幻想的で,もはや篠原とおるの原作とは掛け離れた世界だが,漫画より映画のほうが面白い――と横山リエも過日のトークショーで言っていた.園子温が積極的に影響を受けていることも明瞭に感じた.
 本作で脱獄〜バスジャックする女囚を演じる役者たちは皆曲者揃いだが,白石加代子の狂いぶりと梶芽衣子の冷徹さが強烈すぎて他の女優――伊佐山ひろ子や八並映子など――の影は薄い.最後の標的渡辺文雄を惨殺して取り敢えず復讐を終えたさそりには,後は逃避行しかない訳だが...
 腰を抜かし失禁して女囚たちの慰み者になる戸浦六宏や,男根串刺しで磔にされる小松方正など,笑える見せ場多し.

△同『女囚さそり けもの部屋』(1973 東映東京)
 伊藤俊也による「さそり」三部作の最終話.電車の中で刑事(成田三樹夫)に捕まり手錠をかけられたさそりは,刑事の腕を出刃包丁でぶった切り,それをぶら下げたまま逃走する...この冒頭は実に良いのだが,後の展開は三作中で最も整合性がなく,怪談じみていて,時に妙に感傷的で,まぁ怪作でしょう.
 長谷部安春による4作目(蛇足?)や,多岐川裕美,夏樹陽子,岡本夏生主演による各種リメイク版は未見なので,機会があれば観たいが,やはり梶芽衣子主演の最初の2作がベストであることは揺らぐまい...

○白石和彌『凶悪』(2013 日活)
 クソリアリズムで描かれた<社会派>犯罪映画.誰が書いていたのか忘れたが,「日本人男優は総じて演技が下手だが,ヤクザやチンピラなどの犯罪者役にだけはピッタリはまる」という趣旨の映画評論を読んで同感した記憶が,本作を観て甦った.
 「あまちゃん」で薬師丸ひろ子に「デニーロのつもり?」と揶揄されていたピエール瀧のヤクザ演技はデニーロには似てないが本物のヤバさを感じさせるし,善人っぽい役が嘘臭くて個人的に嫌いなリリー・フランキーもここでは快楽殺人者を生々しく演じている.山田孝之は正義の味方(って何だ?ということを考えさせる雑誌記者役)なのに怖い顔で,殺人事件の真相究明にのめり込むにつれて更に怖い顔になっていく.
 引き攣り笑いを催させる場面もあるが総じて重苦しく,後味は悪い.好き者同士でない限りデート映画には向かない.

○森崎東『喜劇・特出しヒモ天国』(1975 東映京都)
 幾組ものストリッパーとヒモたちの群像劇.山城新伍や川谷拓三もいいが,幾つかの場面で池玲子が珍しく可憐に撮られているのが貴重.冒頭と最後で聴ける殿山泰司(坊主役)のラップ説法と,芹明香(アル中のストリッパー役)が仲間の通夜の席で歌う「黒の舟唄」が聴けただけでも観る甲斐があった.撮影場所の1/3くらいは私が住んでいた頃の京都市内.

○同『生まれかわった為五郎』(1972 松竹)
 フーテンの寅+無責任男みたいなキャラクターのハナ肇(為五郎役),全編通して汗だくで熱演する財津一郎(成績の悪いセールスマン→偽大学教授役),即席の民謡酒場で緑魔子(元キャバレー嬢役)がアカペラで春歌を唄う場面,北林谷栄(魔子の祖母役)が訥々と語る漁村の伝承,それに倣って瀕死のハナを全裸の魔子が温めて蘇生させる場面,サウナでハナが三木のり平(ヤクザの親分役)を襲う場面で白黒テレビに映る学生と機動隊の衝突映像〜そのバックに流れる「統一戦線の歌」,最後の場面で緑魔子一家が演じるちんどん屋――殿山泰司(魔子の義父・元ヤクザ役)がちんどん,都家かつ江(魔子の母親役)が三味線,魔子が旗持ち――等々,印象に残る場面満載だが,公開当時は中途半端な出来,と不評だったらしい.確かに泣いていいやら笑っていいやら訳が分からない映画だが,そこがいいんでしょ?

○同『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(1985 キノシタ映画)
 上原由恵がそれまでに出会った人全員(!)の名前を夜通し喋る場面と,倍賞美津子が原田芳雄の仇討ちで梅宮辰夫を撃ち殺す場面は,いつまでも記憶に刻まれそう...

△小原宏裕『実録おんな鑑別所 性地獄』(1975 日活)
 梢ひとみ.ひろみ麻耶,芹明香の三枚看板の所為で却って焦点が暈けた感じ.「さそり」シリーズの影響が感じられるが,強烈さではあちらに敵わない.

2013.12.08 GESO

タイトルGESORTING 198 オイニー
記事No100   [関連記事]
投稿日: 2013/11/05(Tue) 20:48:57
投稿者geso
[たちまち古びる時事ネタ]
 「あまちゃん」は悪くなかったけれど,あまちゃん翼賛体制は凄く気持ち悪かったので,番組が終わってホッとしている.まぁどうせ半年も経てば皆さん忘れることでしょうが...
 そして「ごちそうさん」のベタな予定調和.こちらはこちらで人気あるそうで,NHKはホクホクしていることだろう.今放映中なのは絵に描いたような「嫁いびり編」だが,時代設定からいえば間もなく関東大震災が起こる筈.NHK朝ドラに2クール続けて震災が出て来るのは作為的なのか偶然なのか?
 そういえば,かつて「NHKに捧げる歌」でNHKを批判していた早川義夫が,今年初めNHK「眠いい音楽」に出演していたのには,時の流れを感じた.
 早川義夫に限らず,人が変節するのは当たり前だから,首尾一貫していないからといって非難するつもりはない.
 ただ,弁明も開き直りも後ろめたさも示さず何事も無かったかのように変節されちゃうのもなんだかなぁ...と,むかし天安門事件や反核騒ぎのときに偉そうなことを言っていた文化人やタレントたち――いとうせいこうなど――のその後の言動を見ても,思ってしまうのである.
 「森永」と聞くといまだに反射的に「砒素ミルク!」と返してしまう私にも無論問題はあるが,罪を憎んで人を憎まず,でいいんだろうか本当に?

 連城三紀彦の死去を知り落胆.実業之日本社,講談社,双葉社,集英社,光文社の各社は,せめて餞にお蔵入りの長編作品を出してほしいが,今のところその兆しはない.去年赤江瀑が死んだときも,何も無かったしなぁ...
 毎年好きな作家が死んでいくが,嫌いな作家はなかなか死なない.

[匂いの本を巡る雑感]
A 浅暮三文『カニスの血を嗣ぐ』(講談社ノベルス 1999)○
 再読.犬の嗅覚を持ち,匂いを「見る」ことができる隻眼の男の視点で描かれるハードボイルド幻想小説.生理的に受け付けない読者もいるだろうが――こんなに面白いのに勿体ない――浅暮作品の中ではいまだにベスト.

B ライアル・ワトソン『匂いの記憶 知られざる欲望の起爆装置:ヤコブソン器官』(光文社 2000.原著 2000)
 読み物としては○だが,どうもこの人の書くことは胡散臭くて抵抗がある.

C パリティ編集委員会『色とにおいの科学』(丸善 2001)△
 為にはなるが専門向けで概して面白くない.だが,匂いを分析することと識別することとは違うという点に着目し,ニューラルネットワーク解析法の一つバックプロパゲーション(逆伝播)認識法を用いて(説明略),いわば人間の匂い識別能を増幅する形で,薄すぎて人間では識別不能な匂いを識別する「においセンサー」が開発された話は面白い.

D 大瀧丈二『嗅覚系の分子神経生物学 においの感覚世界』(フレグランスジャーナル社 2005)○
 これも専門向けだが,メインテーマにも増して「科学論」の説明に紙幅が割かれており,その書きっぷりが意外に熱いところが面白い.

E エイヴリー・ギルバート『匂いの人類学 鼻は知っている』(ランダムハウス講談社 2009)○
 著者は心理学者/認知科学者/匂い関係の企業家で博覧強記の人.洒脱な科学読み物としてワトソンより信憑性も高く,今回読んだうちでは一番面白かった.
 独逸人と日本人の匂いの好みの著しい違い――例えば独逸人女性の40%近くがヴィックスヴェポラップの匂いを食用に適した匂いと感じている――だとか,本書が採り上げた死臭や腐臭絡みの実話の幾つかが後に映画化されていること――例えば『127時間』や『THE ICEMAN 氷の処刑人』――だとか,プルースト「失われた時を求めて」における「ふやけたマドレーヌ」の効果が過大評価されていることへの反証だとか,興味深い話題が盛り沢山.
 味覚の話もかなり出てくるが,「料理」は必ずしも必要のない文化的習慣などではなくて,人間が生存するうえで生物学的に必要な行為であることの論証が面白かった.

F 新村芳人『興奮する匂い食欲をそそる匂い』(技術評論社 2012)○
 今回読んだ中では記述の科学性と面白さのバランスではベスト.精子にも嗅覚受容体が機能している――いわば卵子を「嗅ぎ当てる」――とか,辛味や渋味は味覚ではなく痛覚であるとか,アポクリン腺から分泌されるヒトフェロモンは雄ブタの唾液に含まれる性フェロモン(アンドロステノン)と同じもので,何故か利き腕の脇の下からより多く分泌されるとか.
 E本とかぶる話題――独逸人と日本人の匂いの快不快に関する著しい相違など――も出て来て,読み較べるのも一興.

 匂いの学界では,リンダ・バックとリチャード・アクセルによる1991年の嗅覚受容体の発見――2004年にノーベル生理学・医学賞を受賞――が画期をなしたというのが,匂い学者たちのコンセンサスであるらしい(C〜F本).

 ヤコブソン器官――現在では一般に「鋤鼻器」と呼ばれる――は,大部分の哺乳類に加えて殆どの両生類と爬虫類も持っている――魚類や鳥類は持っていない――「フェロモン用の鼻」(F本)のことで,哺乳類の場合は鼻の穴の下側に左右一対ある.
 ワトソンはヒトにもこの器官があり,フェロモンを感知し,更には「第六感」を作動させる重要な器官であると大風呂敷を拡げているが(B本),ヒトではこの器官は退化して痕跡の窪みを残すのみで――正確に言えば,発生の初期段階には鋤鼻器に繋がる神経が一旦形成されるが,発生後36週目には消失し,誕生時には痕跡しか残らない――機能していない,というのが定説らしい(D本,F本).
 しかし,養老孟司はヤコブソン器官とそれに繋がる神経を「ヒトの胎児および新生児、さらには成人で解剖して」「きちんと追跡することができた」という(B本解説).嘘を書くとも思えないから,持つ人と持たない人がいるということなのだろうか?

 ヒトにもフェロモンがあることは,マクリントク効果――共同生活する女性の生理周期がシンクロしてくる現象――が脇の下から分泌されるフェロモンの作用によること等から実証されているが,どうやら鼻で感知している可能性が高いらしい.

 ワイン・アロマホイールやビア・フレーバーホイールが実用化されているのなら,腋臭スメロホイールや○○香アロマホイールを作ることも可能なのではないか...

 ちなみに「DNAは物質名ですが、遺伝子とは同義語ではない」(D本)し,「「遺伝子」とはタンパク質の設計図のことで」「概念であり、DNAは分子の名前である」(F本)ならば,「遺伝子はDNAと呼ばれる物質である」と断じる池田清彦(『新しい生物学の教科書』(新潮文庫 2004.親本 2001))は間違ってるというか,説明を端折りすぎてるのではないか.これでは本人が批判する教科書とあまり変わりがないと私は思う.

[匂いの本ではないが匂う本]
○深沢七郎『言わなければよかったのに日記』(中公文庫 1987.親本 1958)
 「風流夢譚」よりもこの手の作品のほうが面白いと思う.

△山本夏彦『無想庵物語』(文藝春秋 1989)
 筆者と親子二代にわたって友人だった「失敗した芸術家」武林無想庵の評伝.ただし「評伝」という言葉は版元が使っているだけで,著者は「物語」と称している.読売文学賞受賞とは信じがたい/名編集長・名コラムニストのものとも思えない纏まりのない作品なので――時系列も話題もあちこちに飛ぶし同じ挿話が繰り返し出てくる――そのように称したのか? あるいは著者自ら記すように自伝的要素が強く「主観的」にならざるを得なかったから,「評伝」ではなく「物語」としたのかも知れない.まぁ亡友に対する哀惜の念は慥かに伝わってくるけれど.
 評伝であれば大概巻末に置かれるべき略年譜もなく,代わりに,人名と事項を一緒くたにした著者自身による変わった「索引」が付されている.

◎皆川博子『恋紅』(新潮文庫 1988.親本 1986)
 卓越した技巧を気取らせない/そんなことはどうでもいいと感じさせる作者/演者のみが名人と呼ばれるべきだ...という点で,皆川博子は名人の一人である.
 本作は一見地味なビルドゥングス時代小説だが,どこにも文句の付けどころがない.直木賞などどうでもいいが,本作が受賞したのも当然だと思う.

○同『散りしきる花 恋紅 第二部』(新潮文庫 1990)
 前作を未読の読者にも分かるように折々粗筋めいた説明が入る点は,親切だがくどい――前作を読まずに本作を読む読者など,まず居ないだろうから.
 前作で主人公に感情移入した読者は,本作での過酷な運命に居たたまれなくなるし,その後の成行きが気になるのに第三部以降が書かれていないことに苛立ちもする... それでも秀作であることは確か.

△海堂尊『ナニワ・モンスター』(新潮社 2011)
 医療改革を基盤にした国家変革を唱えるプロバガンダ小説.主な舞台は浪速府――可能世界における大阪府――だが,桜宮サーガを読んでいなければ分からないし面白くもないという点で,対象読者はシリーズのファンに限定される.作者はそれを承知のうえで書いていて,良くも悪くも一貫して旗幟鮮明.

△柳広司『吾輩はシャーロック・ホームズである』(角川文庫 2009.親本 2005)
 倫敦留学中に心を病み,自身をホームズと思い込んだ夏目漱石が,事件を「解決しない」ユーモアミステリ.記述者は当然ワトスンである.ホームズもののパスティーシュとしては上出来のほうだと思うが,頻出する文明批評の的確さと較べてメインの殺人事件やトリックがショボいのが残念.

○ダニー・ボイル『トランス』(2013 英)
 名画泥棒と催眠療法という組合せの妙.派手な事件や犯罪が相次ぐのに警察が殆ど出張ってこないのは不自然だが,まぁ面白いから許す.さいみんじゅつのめいしゅはひとをどうにでもあやつることができてこわいなあ,でもそれだとどんなむりめのおはなしでもありになってしまうからずるい,とおもいました.

○村山新治『おんな番外地 鎖の牝犬』(1965 東映東京)
 扇情的なタイトルに反して非常に「教育的」な映画.音楽は冨田勲だが主題歌はド演歌.主演は当時21歳の緑魔子.興味深い点が多い拾いもの.

×小杉勇『金語楼の俺は殺し屋だ』(1960 日活)
 あまり面白くない喜劇.当時の柳家金語楼は国民的人気者だったが,百面相以外にどこが面白かったのか,今となっては謎である.ヤクザの女親分役の宮城千賀子が格好いい.

△春原政久『この髭百万ドル』(1960 日活)
 喜劇.益田喜頓は金語楼よりも芸があって○.

○小杉勇『刑事物語 ジャズは狂っちゃいねえ』(1961 日活)
 シリアスな犯罪映画.喜頓も『百万ドル』と打って変わってシリアスな刑事役.白木秀雄クインテットの「クールな」演奏シーンがフィーチュアされる貴重な作品.

○舛田利雄『大幹部 殴り込み』(1969 日活)
 青春/ヤクザ映画の佳作.経済ヤクザ――表向きは不動産屋.インテリヤクザは未だ登場しない――に転身した親分・大幹部を含む組員(多数派)と,彼らに使い捨てられた守旧派の任侠ヤクザ(少数派)の内紛が描かれる.最も下っ端の「愚連隊」(貧しいチンピラたち)が守旧派で,「造反有理」の立て看を掲げたりゲリラ戦術で多数派に攻撃を仕掛けるところに,時代背景が感じられる.この頃の渡哲也はやけに格好いい.青木義朗と藤竜也の死に様もイカす.
 私が観に行った日(11/2)はヒロイン役の横山リエのトークショーがあったので,定員48人の阿佐谷ラピュタが80人近い大入りだった.65歳になった横山リエは今もなお魅惑的.

○伊藤俊也『女囚701号 さそり』(1972 東映東京)
 映画館で観るのは何十年ぶりか...やはり面白いものは面白い.
 主人公のさそり(松島ナミ)はやられたらやり返す女だが,倍返しどころではなく,相手を半殺しか全殺しにするまでやめない.普通に考えるとやり過ぎで,一種のサイコパスとも思えるから,リアルに描けば観客の共感は得られない筈だが,暴力とエロスの基準値をかなり高めに取った非現実的な物語世界――主な舞台は閉ざされた刑務所――を設定し,演劇的描写やホラー映画的描写を援用することによって,監督はこの問題を解決している.暴力的ファンタジーの世界だから,主人公はいくら虐待されても陵辱されても汚れることはなく美しい――常に顔はツルツル,髪の毛はツヤツヤである.
 ...てなことは見終わった後で思ったことで,映画は分析しながら観てはつまらない.観ている間はひたすら享受するのが正解である.逆に言えば,観ている間に分析したくなるような映画は退屈,ということだ.
 極端に類型化された役者たちのキャラ――梶芽衣子の強烈な復讐心とタランティーノも悩殺された目力,横山リエの悪辣さと剃り落とされた眉,司葉子の男前な姐御っぷり等々――だけでもお腹一杯になれます.

2013.11.05 GESO

タイトルGESORTING 197 復元するはわれにあり
記事No99   [関連記事]
投稿日: 2013/10/06(Sun) 18:06:11
投稿者geso
 サーバ移行時のトラブルで「GESORTING」のファイルの多くが吹っ飛んだんだけど,管理人がアーカイブとして復元してくれたので,これを機に久々に投稿することにしました.
 見返してみたらブランクは11箇月にも及ぶ...
 この間は『まとめてアバヨと云わせてもらうぜ』と『なまこじょしこおせえ』のCD復刻,通称『第五列BOX』の制作,第五列絡みのトーク企画やインタビュー,竹田賢一『地表に蠢く音楽ども』の刊行等に関わっていて,枯れ木も山の賑わいでした.
 文中原則敬称略/私信と重複する部分あり/ですます調とである調は混在/主語は当面「私」.

[直近の覚書]
○園子温『地獄でなぜ悪い』(2013 日)
 むしろ『映画でなぜ悪い』或いは『虚構でなぜ悪い』という表題が相応しいハイテンションなスプラッタ・ヤクザ・ファンタジー.
 ヤクザの本物の抗争場面を映画撮影するなかで,主要登場人物の殆どが凄惨に,だが幸福感の絶頂で殺されてゆく.一番不運な(巻き込まれただけの)星野源ですら――コーク大量摂取の効果もあるとはいえ――二階堂ふみとの愛の幻想に満悦しつつ逝く... 「絶頂で死にたい」(竹田賢一作詩作曲歌唱)を勝手に想起.
 唯一人 生き延び,撮影済みフィルムと録音テープを掻っ攫って狂笑しながら逃げ切るのが長谷川博己(監督役)というのは,<映画は結局監督のもの>という意味か.慥かにそんな傲慢さなしには映画など作れないとも思う.
 園監督の知人の映画監督がヤクザの親分の娘と恋仲になり,親分に捕まって娘を主役にした映画を撮れと脅されたという<実話>に基づく作品だと聞いたが,それが本当なら面白すぎる...

△倉地久美夫 マヘル・シャラル・ハシュ・バズ コンサート(鶯谷 東京キネマ倶楽部 10/4)
 フライヤー等に記載された説明は分かりにくいが,東京都と,東京都歴史文化財団という公益財団法人が主催する「東京文化発信プロジェクト」の一つ「サウンド・ライブ・トーキョー」というフェスティヴァルの一環であるらしい.
 パンフや,その挟み込みの大量のフライヤーは,デザインセンスに疑問を感じるものの,いずれもカネを掛けた立派なものである.
 こうした歴とした催しを見て何だか胡散臭いとか,カネの流れはどうなってるんだろうとか疑ってしまうのは,私がひねくれているからでしょう.
 第一部は倉地久美夫.前半はソロ,後半はtriola(波多野敦子vn+手島絵里子vla)と千葉広樹cbを加えたカルテット.
 倉地は疲れていたようで,いつもに較べると精彩を欠く演奏だった.
 triolaによる編曲は以前よりも更に凝っていたが,カルテットの演奏は,合奏曲として綺麗に纏っていた半面,当初の瑞々しく荒々しい勢いは失われており,旬は終わってると感じずにはいられなかった.
 倉地+triolaは,今回倉地が上京している間にCDのレコーディングを行うということだが,今ではなく,2012年中に――ギリギリ同年9月の原宿VACANTでの共演の頃までに――録音すべきだったと,私は思う.
 CDはごく端正な作品集になると予想されるが,永続的なユニットではないのだし,それほど緻密に作り込まなくとも,パワフルな演奏を旬の時期にパッケージングしてほしかったなぁ...
 エンディングには工藤冬里も参加ということで,ピアノの前に座りはしたが,手回しのサイレンをちょっと鳴らしてお茶を濁したのみ.
 第二部のマヘルは,いったい何人編成だったのか――パンフにも誰それ「ほか」としか載ってない.ちゃんと数えなかったが,15,6人は居たと思う.
 途中,「今夜はブギーバック」のカラオケビデオと一緒に――ラップ部分は自作詩に差し替えて――歌と演奏をしたところと,いきなり倉地に長い詩を一篇「朗読してよ」と無茶振りしたところ――倉地は戸惑いつつ読めない漢字を飛ばして何とか完遂――を除いて,終始,ポスト3.11の<感じ>を強調した概ね短めの自作ダダ詩(英語対訳付き)をプロジェクタで映写しつつ,工藤が朗読(ときに歌唱)+アクションし(今回は楽器演奏はなし),他のメンバーが伴奏するという様式だったが,似たような詩が切れ目なく50篇も続いたのにはさすがに飽きた.
 詩ごとに付された楽曲(ミニマルにならざるを得ない)を,工藤の朗読(割と適当)の開始と終了のタイミングに合わせて演奏するメンバー諸氏はまことにご苦労様で,信者でなければとても務まらないと思った.
 プログラムのマヘルの解説には<ギターやヴォーカルなどをリズム・セクションが支えるというロックバンドの「ピラミッド型」の編成を批判的に解体し、ロックには滅多に使われないマイナー楽器を多く含む逆ピラミッド型の編成を、その都度数人から数十人規模で実現。>と記載されている.
 もしそうであれば,ピラミッド型であろうと逆ピラミッド型であろうと,その「頂点」に位置する指揮者或いはトリックスター――ここでは工藤――の存在自体を批判的に解体しない限り,ロックバンドの権力構造も解体されないんじゃないだろうか.
 まぁ,今回の企画者は,倉地たちの「固い」室内楽と,マヘルの「緩い」オーケストラの対比の面白さを目論んだだけなのかも知れない.

[餘は何故新江ノ島水族館を訪ねし乎](私信ヨリ)
映畫『パシフィツク・リム』(以下「リム」)を觀たから――と云ふのは遠因よりも近いが近因と云ふ程では無いので中因と言つておかう。
否。そんな言葉は無いし抑も因果律ナド錯覺である事はニイチエの徒にとつては自明の理。
其れは兔も角リムの美點の一つは怪獸邦畫が錢は掛けたくないわ面倒臭ひわで描いて來なかつた<怪獸の死骸を如何に始末するか>と云ふ問題を丹念に描いてゐた事である。
闇の解體業者が肉片一つ殘さず持ち去るのだけれど生食には不適なので保存食品や怪しげな藥品に加工の上販賣するのである。
其の解體場面で怪獸の胎内からワラワラと飛び出して來た寄生蟲達がダイオウグソクムシ(以下「グソク」)を摸倣したと思しき仔山羊程の大きさがあるキモ可愛い方々なのであつた。
さう云ふ譯でグソクの實物が觀たくなり新江ノ島水族館(以下「エノスイ」)を訪ねた。
グソクは海底に棲む巨大なダンゴムシ樣の生物である。
日本では此處と鳥羽水族館でしか飼育されて居らぬらしい。
鳥羽のグソクの方がデカいし中には何故か一年以上に亙り絶食を續けてゐる有名な御仔も居るのだがさう簡單には觀に行けぬから――九年前に訪ねた事は有るが當時は未だグソクは居らなんだ――エノスイで御茶を濁したのである。
エノスイのグソクたちは大きい者でも三〇糎程度で鳥羽の五〇糎級には敵わないし殆ど動きも見られなかつたのはやや期待外れであつた。
然しプラステイネイシヨンを施したグソクに直接手で觸れらるのは嬉しかつた。
甲羅は蟹竝みに硬く丈夫であつた。
エノスイにはグソク以外にも賣りがあり結果的には其方がヨリ樂しめた。
即ちクラゲフアンタジーホール。
鶴岡市立加茂水族館には敵わないが多分その次ぐらゐに多種多樣の水母が揃つてゐる。
海底の雰圍氣を釀し出したホールに設えられた大小樣々な水槽――中には球形の物も在る――の中を微妙に色彩が變化する照明を浴びながら優雅にたゆたう水母の群れ。
此はもう眼福としか言ひ樣が無い。
以上の外にも御決まりの海豚シヨーを觀覽堪能し己の水族館好きを再確認した事である。
矢張り動物園よりも水族館也。

蛇足壹
何故動物園を陸族館と云はぬのだらうか。
蛇足貳
リムに就いて『解放軍報』は「中國を<怪獸>や<寄生蟲>に見立てて貶める作品」であるとして怒りを表明した由。
怪獸の解體屋集團を中國(系米國?)人に演じさせてゐる事や怪獸に兩親を殺され孤兒となつた日本人女性を米國軍人が育てたと云ふ設定を日米同盟の暗喩と受け取つた譯である。
言はれて見れば慥かにさう讀めない事も無い。
デルトロ監督自身は純粹アニメ・怪獸オタクで政治的意図は無ささうだが聖林映畫だからなあ……
でも單に「かうした役は中國人が似合ふ」「かうした役は日本人の女の子が良い」と云つた工合に類型的に描いただけだとも思ふ。
類型化の裏に偏見が存するのは事實だらうが。

[11箇月間の覚書]
(大半コメント略)
○瀬名秀明『デカルトの密室』(新潮文庫 2008.親本 2005)
 島田荘司は自分が書きたかったと悔しがったのでは.
○野坂昭如『四畳半色の濡衣』(文春文庫 1982.親本 1977)
○結城光考『プラ・バロック』(光文社文庫 2011.親本 2009)
○同『エコイック・メモリ』(同 2012.親本 2010)
 女性警官を主人公にした近未来(並行世界?)警察小説.ハード&クールでカッケー.
○連城三紀彦『恋愛小説館』(文春文庫 1990.親本 1987)
○同『萩の雨』(講談社文庫 1992.親本 1989)
○同『蛍草』(文春文庫 1991.親本 1988)
○同『新・恋愛小説館』(文春文庫 1994.親本 1991)
○同『前夜祭』(文春文庫 1997.親本 1994)
○同『宵待草夜情』(新潮文庫 1987.親本 1983)
○同『もうひとつの恋文』(新潮文庫 1989.親本 1986)
○同『飾り火 上下』(同 1988.親本 1985)
○同『萩の雨』(講談社文庫 1992.親本 1989)
○同『恋文のおんなたち』(文春文庫 1988.親本 1985
○同『敗北への凱旋』(講談社文庫 1986.親本 1983)
 大東亜戦争秘話.暗号小説.社会派+本格ミステリ.
○同『残紅』(講談社文庫 1989.親本 1985)
○同『運命の八分休符』(文春文庫 1986.親本 1983)
 辻真先ふうユーモアミステリ.
○同『日曜日と九つの短篇』(文春文庫 1988.親本 1985)
 slice of life
○同『青き犠牲』(文春文庫 1989.親本 1986)
○同『離婚しない女』(同 1989.親本 1986)
○同『あじさい前線』(中公文庫 1992.親本 1989)
○同『虹の八番目の色』(幻冬舎文庫 1999)
 確信犯的な朝の連ドラふう作品.舞台は農村.
○同『褐色の祭り 上下』(同 1993.親本 1990)
 拗くれたメロドラマ.
○同『たそがれ色の微笑』(新潮文庫 1992.親本 1998)
○同『背中合わせ』(新潮文庫 1993)
○同『美女』(集英社文庫 2000.親本 1997)
○同『変調二人羽織』(光文社文庫 2010.親本 講談社 1984)
○同『顔のない肖像画』(新潮文庫 1996.親本 1993)
○同『愛情の限界』(光文社文庫 1996.親本 1993)
○同『暗色コメディ』(新潮文庫 1985.親本 1982)再
○同『花塵』(講談社文庫 1997.親本 1994)
○同『白光』(光文社文庫 2008.親本 朝日新聞社 2002)
○同『造花の蜜 上下』(角川春樹事務所 2010.親本 2008)
○同『誰かヒロイン』(双葉文庫 2009.親本 1995)
○同『美の神たちの反乱』(新潮文庫 1995.親本 朝陽出版社 1992)
 コンノベル.
○同『どこまでも殺されて』(新潮文庫 1995.親本 1990)
○同『終章からの女』(双葉文庫 1998.親本 1994)
○同『夜よ鼠たちのために』(新潮文庫 1986.親本 実業之日本社 1983)
○同『年上の女』(中公文庫 2000.親本 1997)
○同『一瞬の虹』(新潮文庫 1994.親本 佼成出版社 1990)
○同『密やかな喪服』(講談社 1982)
○同『瓦斯灯』(講談社 1984)
○同『落日の門』(新潮社 1993)
○同『紫の傷』(双葉社 1994)
○同『火恋』(文藝春秋 1999)
○同『秘花』(東京新聞出版部 2000)
○同『ゆきずりの唇』(中央公論新社 2000)
○『ながれ星と遊んだころ』(双葉社 2003)
 これで既存の連城作品は完読.
 「普通の恋愛小説でしょ」「古いんじゃない」と批判する人が居るが,ちゃんと読んだことがあるんだろうか.実際には普通の恋愛小説は一つもないし,古い新しいと善し悪しとはそもそも関係ない.どれも一筋縄ではいかない複雑な心理小説であり,演技論・演劇論としても読める.
△柴田よしき『やってられない月曜日』(新潮文庫 2010.親本 2007)
 働く女性で細部のリアリティに共感する向きも多いだろうから深夜枠でテレビドラマ化すればいいがミステリ的興趣は乏しい.
○長岡弘樹『陽だまりの偽り』(双葉文庫 2008.親本 2005)
 デビュー短編集.かなり捻ったダークな状況設定には通じるものがあるが結末に救いがある作品も含まれている点で,「白い蒼井上鷹」とでもいうか.
△垣根涼介『張り込み姫』(新潮文庫 2012.親本 2010)
△辻村深水『ツナグ』(新潮文庫 2012.親本 2010)
○三上延『ビブリア古書堂の事件手帖4〜栞子さんと二つの顔〜』(メディアワークス文庫 2013)
 面白さで言えば4>1>2>3だが,「乱歩」や「少年探偵団」に反応してしまう者にとってこの巻は必読なので,未読の場合,嫌でも1巻から順に読まねばならぬ.通して読まないと分かりづらいという,シリーズものの嫌らしさを最大限に生かしている.
△地引雄一編『EATER '90s』(K&Bパブリッシャーズ 2012)
△月刊『望星』編『不良老人伝』(東海教育研究所 2008)
△山前謙編『ねこ!ネコ!猫!』(徳間文庫 2008)
△岡崎琢磨『珈琲店タレーランの事件簿』(宝島文庫 2012)
○川崎草志『長い腕』(角川文庫 2004.親本 2001)再読
○同『長い腕II 呪い唄』(角川文庫 2012)
○大沼紀子『真夜中のパン屋さん 午前0時のレシピ』(ポプラ文庫 2011)
○同『真夜中のパン屋さん 午前1時の恋泥棒』(ポプラ文庫 2011)
○同『真夜中のパン屋さん 午前2時の転校生』(ポプラ文庫 2012)
○山田正紀『復活するはわれにあり』(双葉社 2013)
○適菜収『ニーチェの警鐘』(講談社+α新書 2012)
△ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ VI』(エンターブレイン 2013)
○鹿島茂『オール・アバウト・セックス』(文春文庫 2005.親本 2002)
○山形浩生『要するに』(河出文庫 2008.親本『山形道場』イーストプレス 2001)
○大森望・日下三蔵編『年間SF傑作選 虚構機関』(創元SF文庫 2008)
×叶紙器『伽羅の橋』(光文社文庫 2013.親本 2010)
○海堂尊『マドンナ・ヴェルデ』(新潮社 2010)
△海堂尊『医学のたまご』(理論社 2008)
○アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』(ハヤカワ文庫 1978.原著 1969)
△大澤信亮『新世紀神曲』(新潮社 2013)
○蛇蔵&海野凪子『日本人の知らない日本語4』(メディアファクトリー 2013)
○適菜収『いたこニーチェ』(飛鳥新車 2009)
○村田基『夢魔の通り道』(角川ホラー文庫 1997)
○西澤保彦『彼女はもういない』(幻冬舎 2011)
○梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(理論社 2011)
○貫井徳郎『後悔と真実の色』(幻冬舎文庫 2012.親本 2009)
○森達也『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』(角川文庫 2008.親本 2005)
△増田こうすけ『ギャグマンガ日和 14』(集英社ジャンプ・コミックス 2013)
○柴田よしき『Miss You』(文春文庫 2002.親本 1999)
△筒井康隆『ビアンカ・オーバースタディ』(星海社 2012)
 ラノベというよりも中高校生向けSFポルノ.
○東島誠・与那覇潤『日本の起源』(太田出版 2013)

△吉田大八『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(2007 日)
○同『パーマネント野ばら』(2010 日)
○山下淳弘『松ヶ根乱射事件』(2006 日)
○セス・マクファーレン『テッド』(2012 米)
○中原俊『猫のように』(1988 日)25年振り再観
○ウェス・アンダーソン『ムーンライズ・キングダム』(2011 米)
○ファラー・カーン『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』(2007 印)
△神代辰巳『女地獄 森は濡れた』(1973 日)
○パク・チャヌク『イノセント・ガーデン』(2012 米)
○ラジクマール・ヒラーニ『きっと、うまくいく』(2009 印)
○白鳥信一『赤線本牧 チャブヤの女』(1975 日)38年振り再観
×藤井克彦『残酷・黒薔薇私刑』(1975 日)
△キム・ギドク『嘆きのピエタ』(2012 韓)
 儒教道徳とキリスト教の結合はおぞましく納得できない.
△依田智臣『処女かまきり』(1973 日)
△本田達男『人妻セックス地獄』(1974 日)
△本田達男『女高生飼育』(1975 日)
△ジョン・カサヴェテス『ラヴ・ストリームス』(1983 米)
○同『こわれゆく女』(1974 米)
 佯狂は嫌いなれど両作ともジーナ・ローランズの気狂いぶりが真に迫っており圧巻.
○ギレルモ・デル・トロ『パシフィック・リム』(2013 米)
○牧口雄二『毒婦お伝と首斬り浅』(1977 日)
△パトリス・ルコント『スーサイド・ショップ』(2012 仏・白・加)
 プロット単純すぎ.
△井上昭『秘録おんな牢』(1968 日)
○石井裕也『舟を編む』(2013 日)
△佐藤信介『図書館戦争』(2013 日)

2013.10.06 GESO

タイトルRe^3: GESORTING 167 「おっぱいがいっぱい」も三木作品
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投稿日: 2009/05/17(Sun) 13:31:02
投稿者むらなか
 と思っていたら、16日の23時頃、迷惑メールの書き込みがありました。速攻で消して、フォーラムのフォルダもリネームして対応しましたが。
 こういった輩は、自動巡回でforum.cgiなどのネームを拾い、そのリストに書き込みをしているようです。自動書き込みではなく、投稿キーを入れる形式でも書き込まれているので、マメに手で書き込んでいるすかね。ご苦労なことです。

 今度巡回BOTを蹴るフィルタを見つけたので、近々フォーラム全部をリニューアルする予定です。