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タイトルGESORTING 203 still memorize
記事No110
投稿日: 2016/03/12(Sat) 01:52:39
投稿者geso
2014年後半から2015年末にかけて,病気になったり失業したり入院したり通院したりと私は散々な目にあって,ものを考えたり書いたりする余裕がまるでなかった.辛うじて本を読むことと映画を見ることは――キツかったが――できたけれど,音楽は聞く気にならず,ライヴやイヴェントにも殆ど行かなかった.
今も困難な状況は続いているが,やや落ち着いてきてはいるので,この間に読んだ本と観た映画(DVDを含む)をメモすることにした.記録漏れもあるけど...
震災からちょうど5年目の昨日は何事も無かった.

2014年(5月以降)

○森達也・森巣博『ご臨終メディア――質問しないマスコミと一人で考えない日本人』(集英社新書 2005)
 本書ではメディアの「ご臨終」の契機を1995年の阪神淡路大震災とオウム事件と捉えてはいるものの,森は「「臨終」はつまり「終わりに臨む」わけで、まだ正確には終わりじゃない」と後書きに書いている.だがその後,2011年の東日本大震災と福島原発事故を経て,メディアは本当にご臨終したのではないか?
(追記)2015年には間違いなくご臨終したと思う.

△遠藤武文『プリズン・トリック』(講談社文庫 2012.親本 2009)
 冒頭の(実在する)市原交通刑務所の描写のリアルさは花輪和一『刑務所の中』並みで,実際に入ったことがなければ書けないのではないかと思わせるし,他の描写も逐一リアル.兎に角勉強してるのね.密室殺人トリックはじめアイディアもテンコ盛りだし,水準以上のミステリではある.でも今一つ楽しめないのは,文章が練れてないから.このプロットで例えば島田荘司が書いていたら,もっと面白くなっただろう――作者には失礼ながら.

○松井今朝子『三世相』(ハルキ文庫 2010.親本 2007)

○クラフト・エヴィング商會プレゼンツ『猫』(中公文庫 2009.親本 2004.底本 1955)
 有馬頼義・猪熊弦一郎・井伏鱒二・大佛次郎・尾高京子・坂西志保・瀧井孝作・谷崎潤一郎・壺井栄・寺田寅彦・柳田國男の短編(主に随筆)を収めた底本に,クラフト・エヴィング商會の書下ろし漫画――蛇足だと思う――を加えて再編集したもの.猫もののアンソロジー自体はありふれているが,本書は粒が揃っている.

△芦刈いづみ・飯富崇生『時計じかけのハリウッド映画 脚本に隠された黄金法則を探る』(角川SSC新書 2008)
 イントロダクション〜インサイティング・インシデント〜ファースト・ターニング・ポイント〜ミッド・ポイント〜セカンド・ターニング・ポイント〜クライマックス〜エンディング.それを2時間以内に収める... 物語映画に対する在米大衆の平均的欲望(?)を充足し得る脚本という点に限って言えば,この構成は黄金律として慥かにあるのだろう.聖林映画はそれを帰納的に発見し,演繹的に洗練してフォーマットを作り,観衆を馴致/再生産する実験場だったのだろう.その流れにあっては,リンチやタランティーノの<フォーマット崩し>はジャズに対するフリージャズのような存在で,結果的には精々本流を補完し延命させるのに役立っただけなのかも知れない...
 しかし,世界中の映画が聖林映画と同じ構造で作られる必然性など,もとよりない.この手の本は反面教師的に役立てるのが正しいと思う.

○マックス桐島『ハリウッドではみんな日本人のマネをしている』(講談社+α選書 2009)
 タイトルと著者名から胡散臭い愛国エッセイかも知れないと危惧したが,どんな国にもどんな民族にも良い所もあれば悪い所もあるというバランス感覚に基づいた真っ当な現場報告/比較文化論だった.善し悪しの基準自体がそれぞれ違うという問題はあるにせよ,大筋で善意は通じるという楽観/性善説は私には眩しすぎるけど...
 『時計じかけのハリウッド映画』と併読すると,近年の聖林映画は必ずしも「黄金法則」を遵守する姿勢ではなくなっていることが窺えて面白い.桐島は『時計じかけ...』の著者たち――現職はライターと写真家――よりも20歳以上先輩と思しき聖林の現役プロデューサーで,説得力はこっちのほうが上.

△森巣博『セクスペリエンス』(集英社文庫 2006)
○同『蜂起』(幻冬舎文庫 2007.親本 金曜日 2005)
 前者はオーストラリアを舞台に,ギャンブルに負けた代償で性的に蹂躙されたヒロインがギャンブルと性を利用して男たちに復讐するお話.後者は階層化が進んだ近未来の日本でプレカリアートたちが蜂起し内乱――革命ではない――を起こすお話.全ての森作品がそうであるように「市民」を挑発する「非国民/不敬小説」.評価は分かれるだろうが,私は楽しんだ.
(追記)『蜂起』のリアリティが昨今増してきた.

○池田清彦『科学とオカルト』(PHP新書 1999)

○松田洋子『好きだけじゃ続かない』(エンターブレイン 2014)
 1980年代初頭の(東京に憧れる)田舎の中高生の思春期を容赦なくリアルに描いた作品集.多分に自伝的作品が多い.「年をとると何でも「いい思い出」に出来るので都合いいもんです」と作者はあっさり述べているが,ここで描かれる沢山の苦しい思い出を「いい思い出」に昇華させるのはかなり大変だったに違いない.

○梨木香歩『水辺にて』(ちくま文庫 2010.親本 2006)
 著者が,水辺好きが嵩じて(非力なのに)一人でカヤックを漕ぐ人となり,日本のみならずカナダやアイルランドやスコットランドの河や湖にまで足を運んでいたというのは意外だったが,アウトドアスポーツとしてではなく,観察と空想のための乗り物としてカヌーイングしていることが分かって納得.

○山田参助『あれよ星屑(1)』(KADOKAWA 2014)
 敗戦直後,大陸で死に損なった二人の帰還兵の東京焼け跡グラフィティ.ハードゲイ漫画を描いてきた作者初の「普通」作品らしいが,バロン吉元『柔侠伝』シリーズを彷彿させる傑作の予感.絵柄も守村大+バロン吉元という感じ.

○樋口毅宏『日本のセックス』(双葉文庫 2012.親本 2010)
 『さらば雑司ヶ谷』はちょっと期待外れだったが,これは傑作.

○島田荘司『写楽 綴じた国の幻 上下』(新潮文庫 2013.親本 2010)
 チェックしていないが,本作も多分いろんな批判をされたことだろう――「江戸編」の会話文をどういう積もりで現代語にしたんだ?とか.だが,毀誉褒貶あっても島田荘司はやはり面白い.

○赤江瀑『春喪祭』(徳間文庫 1985.親本 1977)

△勢古浩爾『まれに見るバカ』(洋泉社新書 2002)
 半分くらいはいいところを突いてるが,悪口のセンスが下品で見苦しい.

○四方田犬彦『月島物語』(集英社文庫 1999.親本 1992)
○吉田秋生『海街diary 5 群青』(フラワーコミックス 2012)
○同『海街diary 6 四月になれば彼女は』(フラワーコミックス 2014)
○小島毅『増補 靖国史観』(ちくま学芸文庫 2014.親本 ちくま新書 2007)
○日本橋ヨヲコ『少女ファイト 11』(講談社 2014)
△堀井憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』(講談社現代新書 2014)
○笠井潔・白井聡『日本劣化論』(ちくま新書 2014)
○清野とおる『ウヒョッ! 東京都北区赤羽 第3巻』(双葉社 2014)
○泉流星『僕の妻はエイリアン』(新潮文庫 2008.親本 2005)
△小出裕章『騙されたあなたにも責任がある』(幻冬舎新書 2012)
△森達也『アは「愛国」のア』(潮出版社 2014)
△呉智英・適菜収『愚民文明の暴走』(講談社 2014)
○藤井聡・中野剛志『日本破滅論』(文春新書 2012)
○ウォルター・ブロック『不道徳な経済学』(講談社+α文庫 2011.親本『不道徳教育』 2006)
△本間祐編『超短編アンソロジー』(ちくま文庫 2002)
○ジャレド・ダイアモンド他『知の逆転』(NHK出版新書 2012)
△連城三紀彦『処刑までの十章』(光文社 2014)
△古屋兎丸『鈍器降臨』(メディアファクトリー 2004)
○F.ヴェデキント『地霊・パンドラの箱』(岩波文庫 1984.原著 1906)
○山口仲美『犬は「びよ」と鳴いていた』(光文社選書 2002)
○山田正紀『クトゥルフ少女戦隊 第一部』『同 第二部』(創土社 2014)
△楡周平『「いいね!」が社会を破壊する』(新潮新書 2013)
△岸博幸『アマゾン、アップルが日本を蝕む』(PHPビジネス新書 2011)
○テッサ・モーリス・スズキ『過去は死なない』(岩波現代文庫 2014.親本 2004)
○山田参助『あれよ星屑(2)』(KADOKAWA 2014)
×中島浩籌『心を遠隔管理する社会――カウンセリング・教育におけるコントロール技法』(現代書館 2010)
○品川正治『激突の時代「人間の眼」VS.「国家の眼」』(新日本出版社 2014)
○F.ヴェデキント 『地霊・パンドラの箱――ルル二部作』(岩波文庫 1984.原著 1895・1906)

映画
×橋本一『探偵はBARにいる』(日 2011)
 前半の<映画っぽく作ったテレビドラマ>風の軽さと後半の<シリアスなテレビドラマみたいな映画>風の軽さとでバランスを取った積もりなのだろうか? ハードボイルドのお約束から外れようとする思惑は想像できるので原作は読んでみたくなったが,映画は何しろテンポが悪い.

△神代辰巳『濡れた欲情特出し21人』(日 1974)
○神代辰巳『四畳半襖の裏張り しのび肌』(日 1974)
○呉美保『そこのみにて光輝く』(日 2014)

△武内英樹『テルマエ・ロマエII』(日 2014)
 前作のヒットのお陰で作ることが出来た同工異曲の2作目.3作目も準備中らしいが,もう作らなくていいと思う.

○矢口史靖『WOOD JOB!~神去なあなあ日常〜』(日 2014)
○神代辰巳『赤線玉の井 ぬけられます』(日 1974 

○田中登『(秘)色情めす市場』(日 1974)
 5回目の鑑賞.何度観ても良いものは良い.

○ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』(独・英 2014)
 全く好き放題に作っているのにこの監督が同業者に敬愛されているのは,才能だけではなく人柄にもよるのだろう.

△同『ファンタスティックMr.FOX』(米・英 2009)
△トラビス・ファイン『チョコレート・ドーナツ』(米 2012)

○深作欣二『仁義の墓場』(日 1975)
 狂暴なヤクザをモデルにした実録もの.全く同情の余地がない渡哲也の狂いぶりが素晴らしい.東京を所払いになった渡に芹明香がシャブを教える(洒落にならん)大阪潜伏中のシークエンスは,明らかに『(秘)色情めす市場』へのオマージュ.

○神代辰巳『濡れた欲情 開け!チューリップ』(日 1975)

△中島哲也『渇き。』(日 2014)
 『下妻物語』と『パコと魔法の絵本』の原作は未読だが,既読の『嫌われ松子の一生』と『告白』が原作よりも面白かったので,中島監督には注目していた.今回はあの後味の悪い小説をどう料理したか,それと,近頃稀な賛否真っ二つの評判――大多数は「否」らしい――に興味があったので,観に行った.
 客は6分の入りだったが,途中で席を立つ人が私よりも前の列だけで6,7人もいたのには驚いた.この程度の「暴力描写」や「不快さ」や「救いのなさ」にも耐えられない客がいて,こうした連中がボロクソの評価をツイートしているのか?
 だけど,本作は元々そういう挑発的な映画として作られているのだから,そこに文句を付ける客は来る場所を間違えているとしか言い様がない.自らノイズ系のライヴを観に行っておきながら「音がうるさい」と文句をつけて帰るのと同じだ.
 「ムカツク登場人物ばかり」(多数意見)というのには同感だが,だからといって「全く感情移入できない」(多数意見)というのは,自分の想像力の乏しさの表明でしかない.私の場合,殆どのキャラに感情移入できた――ムカツクけれど.
 本作は監督が本気で原作に惚れ込んで精緻に作り上げた作品であり,映画ファンだったら観る価値はあると思う.タランティーノに似ている所もあるが,中島作品には往年の映画作品へのオマージュという側面はなくて,唯我独尊.映像センスは蜷川実花に似ているが,中島のほうが遥かに上手い.
 本人の好感度が下がりそうな作品に出てハイテンションな演技をしている皆さんの役者根性も立派だが,汗と血に塗れた役所広司のクローズアップの頻度が高すぎる点に限っては,評価が分かれても仕方ないと思う.
 残念だったのは,物語のテンポが次第に緩まり――そのこと自体は計算尽くなのだろうが――最後の辺りが遅すぎると感じられたこと.ここまでスローダウンしなくても良かったのに.でもまぁ,前半の目まぐるしいカット割りが最後まで続いていたら,観るほうは疲れて最後まで持たなかったかも知れない.

○ジョー・ライト『つぐない』(英 2007)
○石井輝男『殺し屋人別帳』(日 1970)
○アレハンドロ・ホドロフスキー『リアリティのダンス』(チリ・仏 2013)
○荒井晴彦『身も心も』(日 1997)
○中島貞夫『鉄砲玉の美学』(日 1997)
○中島貞夫『唐獅子警察』(日 1974)
○ジェームズ・ガン『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(米 2014)
○園子温『TOKYO TRIBE』(日 2014)
○中島貞夫『狂った野獣』(日 1976)
○クリント・イーストウッド『ジャージー・ボーイズ』(米 2014)

○エリック・クー『TATSUMI』(シンガポール 2011)
 クールジャパンならぬダークジャパン.敗戦〜70年代までの高度成長期の繁栄の陰で蠢いていた清くも美しくもなくただ貧しく下世話なニッポン人を描いた辰巳ヨシヒロの漫画数編を,アニメーション映画化したもの.
 原作を深く理解した見事な出来映えで,シンガポールの映画監督にこんな作品を撮られて日本の映画人は口惜しくないのかしらと,愛国奴じゃない私でも思った.
 辰巳は手塚を師と崇めていたというが,絵柄は――緻密な背景と漫画的な人物のコントラストなどを含めて――明らかに水木系である.といっても彼は水木のように妖怪の世界に遊ぶこともしなかったし,手塚のように反戦を訴えることもしなかった.暗くて救いようのない状況に絶望して死を選ぶ主人公や「人生なんて所詮こんなもんさ」といじましく生き続ける主人公ばかりで,幸福な主人公はいなかった(と記憶する)し,イデオロギーも感じさせなかったので,右にとっても左にとっても「利用」し難い作風だったことも,映画化しにくかった一因かも知れない.
 映画には辰巳本人も登場するが,作品から想像されるほど暗い感じではなく坦々とした印象で,海外での評価の高さ――日本国内より高い――を本当に喜んでいる様子だった.
(追記)辰巳は2015年に死去.悲しい.

○きうちかずひろ『JOKER ジョーカー』(日 1996)
△吉田大八『紙の月』(日 2014)
○山崎貴『寄生獣』(日 2014)
○内田吐夢『たそがれ酒場』(日 1955)

2015年

○堀井憲一郎『いつだって大変な時代』(講談社現代新書 2011)
○矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル 2014)
△東雅夫編『怪獣文藝』(メディアファクトリー 2013)
△中島浩籌『心を遠隔管理する社会 カウンセリング・教育におけるコントロール技法』(現代書館 2010)
△山本夏彦『オーイどこ行くの』(新潮文庫 2002.親本 同題1994+『その時がきた』前半のみ1996)

△樋口毅宏『民宿雪国』(祥伝社文庫 2013.親本 2010)
 新潟を舞台にした小説を読むのは『戦争の法』以来かも.
 ミステリなら結末に置かれそうな場面が本作では冒頭に置かれているように,樋口の小説は「書かれたものは全て虚構である」という開き直りとケレンに満ちていて,そこが水道橋博士のような虚実の間で生きる芸人に受けるのだろう.
 だが,例えば竹中直人がいくらシリアスな演技をしても,初期のお笑い芸を擦り込まれている観客(私)には嘘臭いものにしか見えないように,樋口作品は,本当はシリアスなのだと言いたいのかも知れないが,徹底的に底の浅い(ポストモダンな?)コラージュにしか見えない.サブカル雑誌編集者上がりの作者は,多読はするが熟読はしない人なのではないか.
 あとがきや梁石日との対談を読んでも,朝鮮人差別の問題についてかなり真面目に考えている様子ではあるが,本心なのかどうかは疑わしい――というか,少なくとも私には判断がつかない.
 あらかじめ嘘であると開き直って書かれたものに嘘臭いと文句を言っても詮無いことだが,「作品」としては,嘘の中にもリアリティが必要だと思う――そのリアリティをもたらすものを「技巧」に含めるべきかどうかは別にしても.
 例えば往年のひさうちみちおは偽セックスルポをよく書いていたが,ひさうちの場合は虚構の中にもどうしようもない己の性癖のリアリティが漏れ出していて,そのヘンタイ性が演技ではないことを告げていた.
 しかし,これまで読んだ範囲では,樋口の小説にそうしたリアリティは感じられない――ヘンタイとして信用できないのである.

○ルディー和子『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』(日経プレミアシリーズ 2013)
○ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』(文春文庫 1998.親本 1990)
○原朗『日清・日露戦争をどう見るか』(NHK出版新書 2014)
○西谷大『歴博ブックレット18 食は異なもの味なもの』((剤)歴史民俗博物館振興会 2001)
○孫崎享『戦後史の正体』(創元社 2012)
○同『日米開戦の正体』(祥伝社 2015)
○ドリヤス工場『有名すぎる文学作品をだいたい10ページくらいの漫画で読む。』(リイド社 2015)
○三上延『ビブリア古書堂の事件手帳 5』(メディアワークス文庫 2014)
○アゴタ・クリストフ『悪童日記』(ハヤカワepi文庫 2001.原著 1986)
△ 大濠藤太,沢野健草 『路上のうた ホームレス川柳』(ビッグイシュー 2010)
△東田直樹『風になる――自閉症の僕が生きていく風景』(ビッグイシュー 2012)
○オリバー・ストーン,ピーター・カズニック,乗松聡子『よし、戦争について話をしよう。戦争の本質について話をしようじゃないか オリバー・ストーンが語る日米史の真実』(金曜日 2014)
○鈴木智彦『ヤクザと原発』(文春文庫 2014.親本 2011)
○ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』(文春文庫 1998.原著 1990)
○原郎『日清・日露戦争をどう見るか』(NHK出版新書 2014)
○西谷大『食は異なもの味なもの 食から覗いた中国と日本』(歴博ブックレット 2001)
△東山彰良『流』(講談社 2015)

△筒井康隆「モナドの領域」(『新潮』2015年10月号掲載)
 大半が(通称)GODのご託宣から成る思弁小説だが,GODは作者の自我の投影にしか見えない.筒井センセイ,神様のつもり?!――そうだったりして.

映画
△リチャード・リンクレイター『6才のボクが、大人になるまで』(米 2014)
○川村泰祐『海月姫』(日 2014)
○武正晴『百円の恋』(日 2014)
○安藤桃子『0.5ミリ』(日 2014)
△ティム・バートン『ビッグ・アイズ』(米 2014)
×山下敦弘『味園ユニバース』(日 2015)
△ソフィー・タチチェフ『家族の味見』(仏 1976)
○ジャック・タチ『ぼくの伯父さん』(仏・伊 1958)
△ルネ・クレマン『左側に気をつけろ!』(仏 1936)
△ニコラス・リボウスキー『ぼくの伯父さんの授業』(仏 1967)
△ジャック・タチ『ぼくの伯父さんの休暇』(仏 1953)
△本広克行『幕が上がる』(日 2015)
△松尾スズキ『ジヌよさらば〜まほろば村へ〜』(日 2015)
○山崎貴『寄生獣 完結編』(日 2015)

ケージが「目的なしに書く(作曲する)こと,純粋に書くこと,また純粋に聴くことは可能.それらの行為は互いに無関係.」というのはそのとおりだが,これがイデオロギーになってしまってはまずい.
ケージが夢想していた「社会」は有用性(ユーティリティ)の意識を共有したユートピアなのか......何かロハス臭い.

イベントとアクシデントは対立ではなく並存するという考え方が小山博人のイベント=アクシデントなのか?

2016年

○三上延『ビブリア古書堂の事件手帖 6』(メディアワークス文庫 2014)
△六田登『世界は二人のために、二人は世界のために』(幻冬舎 2013)
△大沼紀子『真夜中のパン屋さん 午前2時の転校生』(ポプラ文庫 2012)
△同『真夜中のパン屋さん 午前3時の眠り姫』(ポプラ文庫 2013)
△渡部直己『本気で作家になりたければ漱石に学べ!』(太田出版 1996)
○平出隆『猫の客』(河出文庫 2009.親本 2001)
△深沢七郎『生きているのはひまつぶし』(光文社 2005)
△下村敦史『闇に香る嘘』(講談社 2014)
△深水黎一郎『最後のトリック』(河出文庫 2014.親本『ウルチモ・トルッコ』講談社ノベルス 2007)
△甲野善紀・田中聡『身体から革命を起こす』(新潮文庫 2007.親本 2005)
○清野とおる『ウヒョッ!東京都北区赤羽 5』(双葉社 2016)
○浅木原忍『ミステリ読者のための連城三紀彦全作品ガイド 増補改訂版』(Rhythm Five 2015)
△増田こうすけ『ギャグマンガ日和 巻の15』(ジャンプコミックス 2014)
△同『ギャグマンガ日和GB 1』(ジャンプコミックス 2015)

映画
△羽住英一郎『劇場版 MOZU』(日 2015)
○ルノー・バレ&フローラン・ドゥ・ラ・テューレ『ベンダ・ビリリ!〜もう一つのキンシャサの奇跡』(仏 2010)
○マイケル・ムーア『シッコ』(米 2007)
○同『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』(米 2009)
△ラリー・チャールズ『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』(米 2006)
△サーシャ・ガヴァシ『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち』(米 2009)
○想田和弘『牡蠣工場』(日 2016)

2016.03.12 GESO