1.Dogma教義

 

 

戒の1 汝、酒を飲まざる事なかれ

戒の2 二日酔を恐れるなかれ

戒の3 下戸をいじめるなかれ

戒の4 酒量を誇るなかれ

戒の5 あまり真面目に考えるなかれ 

 


 この世界は苦の世界だという宗教がある。一方では楽しみに満ちた世界という宗教もある。どちらが正しいのだろう?
 魂は何度も転生するという宗教があると思えば、一度生まれて死んだ魂は最後の審判までは復活しないという宗教もある。どちらが正しいのだろう?

 世の中の宗教家の言葉を聞いていれば、ありとあらゆる神と世界の構造についての考えを読むことが出来よう。ところが翻ってそれらの宗教が語る人のあり方を見るならば、キリスト教の戒律も仏教の教えも、特に変わったことは言っていない。他人に優しくあれ、盗むな、殺すな、ねたむな、うらやむな。そして、我が神のみを唯一の神としてあがめよと。

 科学を学んだ立場から言えば、特別に人のためにある魂など存在しないように思える。あるいは山川草木全てに魂があると言っても良いが。神秘は存在するのかも知れない。しかしそれらの力は頼りにするには、あまりにも儚く気まぐれである。

 「この世は地獄か天国か、過ごす心の向き次第」とは言ったものである。
 酒は最大の娯楽にして慰安である。この慰安をただの酔漢として享受するだけではなく、至福の思索空間とすることが出来ないか。良き人として有るための至幸の飲酒を目指す、これがもろみの塔の最大の目標である。

 酔うこと、至福の飲酒時空を漂うことが目標であるが、ただ酔うばかりが良いわけではない。良き酔いをもたらすためには、良酒が必要であり、良酒は必ず五味の調和が求められる。もろみの塔においては五味一体の考えを持ち、調和良き良酒を味わって至幸の飲酒時空を漂い、最後には「酔醒一如」の境地に達するのである。

 酒飲みが忘れていけないのが二日酔。天国の夜が地獄の朝に変わるのも、酒の功徳である。歓極まって憂いを生じ、良薬も過ごせば毒に変ずると言うとおり、己の分を越えた楽しみはそのまま身に降りかかってくるのである。この二日酔あればこそ、ひとは地獄成らざるこの世に生まれたことを喜ぶ気持ちにもなれるというものである。

 凡人が容易に解脱の境地に達することは出来ない。凡人の無明を抱えたままで、天国に昇ることはかなわないであろう。しかし、酒は凡人をして容易に天国の楽しみを味あわせることが出来る。酒は凡人を、いくらか天上に近づける塔となるであろう。
 「月を得るために木に登るは愚昧 木に登らざるは怠惰である」

 酒の全ての始まりはもろみである。もろみの中で働く微生物の力が、穀物や果実を酒に変生せしめるのである。酒の酔いが、人の心のしこりやわだかまりを、歓びや明日への活力へと変生させるのも、これと同じ働きでは無かろうか。
 そこでこの教えの名前を、「酒の塔」とせず、「もろみの塔」としたのである。