地下鉄狭間線扇町駅から醍醐駅の間には地底湖がある。通勤に忙しい朝、あるいは疲労に澱んだ夜の通勤時間、果てしなく続く地下鉄の騒音の中で、暗色に並んだコンクリートの柱の彼方に、微かに光る水面をかいま見ることが出来る。暗闇の中で美しく揺らめく水面、それは一瞬のうちに地底湖のほとりに住む人々の、明かりや人影を映して消える。私たちが椅子に凭れて眠り、あるいは雑誌の記事に目を引かれている内に、一瞬の真実は車窓の彼方に過ぎるのだ。
否、過ぎるのは私たちだ。財布の中身を数え、明日の天気を心配し、週末の束の間の家族の団欒と、脂ぎった居酒屋のカウンターに安息を預けて、暗い地下鉄のトンネルに、一筋の光の傷跡を残して。
たとえば人身事故の朝、地下鉄に乗る人たちは、一様に銀白色の魚を抱いている。魚を抱きながら魚の美しい鱗の模様にも、尾鰭から滴り床を濡らす赤い水にも気づくことなく、目を閉じて体を揺らしたり、ぼんやりと吊り広告を見上げたりして、事故によって奪われた時間を耐えるのだ。決して人の死を悼むことなく、耐えるのだ。
しかしそれとて地底湖に、何ら関係のあることではない。あわただしい通勤の朝に時として生じる、すぐに過ぎ去ってゆく、何の意味もない余談に過ぎない。