もののけが、桜の古木の枝に腰掛け、薬を煎じている。場所は多摩川の土手、季節ならば光の潤む春の初め、時は藍色の影濃い夕暮れ、春鳥の啼き声が聞こえるあたり。
もののけの膝の間に抱え込まれた片口の壷で煮られている物は、桜蕾、蛙卵、鯨骨、瀝青粉、脂石(それから人間には知ることの出来ない動物・植物・鉱物の数々)。
もののけは、小声で何事か呟きながら新たな薬種を壷の中につまみ入れる。その度に白い湯気が立ち上り、桜の黒々とした幹を巻いて漂う。しかしそれもたちまちに薄らぎ、夕闇と共に濃くなる春の霞と見分けが付かない。
薬汁は煮つめられ、薄絹で漉して平らな石の上で陰干しにされ、棗ほどの大きさに切られ、銀箔を巻かれ刻印を押されて、人を羽化登仙させる薬、すなわち仙薬となる。
何故にもののけが、多摩川の土手で仙薬を煮ているのかは分からない。そもそも凡人の私には、もののけの姿が見えるわけでもない。ただ光の濃い春、空と地平が等しい色彩で交差し、輪郭を失った音が空気を滲ませる夕暮れ時、多摩川の土手の桜並木を吹きすぎる風の中に、微かに漂う不思議な匂いにふと驚かされるだけである。