2 仕事
わたしの仕事は通勤それ自体である。午前八時に家を出て、電車、地下鉄、バスを都合二十六回乗り換えて、勤務先の会社に到着するのが退社時刻寸前の午後五時頃。わたしは急いで上司に報告しに行く。
《今日の通勤に要した時間は、正確に八時間五十二分十八秒です》(疲労を隠して微笑)
《ごくろう。では、また来週》(微笑)
帰りはタクシーでまっすぐ家に向かう。九時半には家に着くことになる。明日は日曜日。
わたしの報告はきちんとファイルされ、会社の大金庫に保管される。半期に一度、まとめて焼却されるまでは、絶対に外に持ち出されることはない。こういったことは、まあ、公然の秘密に属することなのであるが。
わたしはわたしの仕事に誇りをもっている。
3 いるはずのない人
ある日曜日、町で、いるはずのない人を見かけた。いるはずのない人がいるなどということがあるはずないのであるが、実際にいる以上、いるはずがないというのは誤りであるはずだ。わたしはその、かつているはずがないと思われていた人に声をかけてみた。
《もしもし。あなたは──失礼ですが──例の『いるはずのない人』ではありませんか?》
途端に、その人は嘘のようにかき消えてしまった。《キミノ負ケダヨ》という囁きが聞えたような気がしたが、ひょっとしたらそう囁いたのはわたし自身だったかもしれない。町は群衆でごったがえしていたが、非常に静かだった。おそらく、わたし以外の人は皆、唖なのであろう。
やっぱり、あの人はいるはずのない人だったのだ。
4 食事
食事は一日に何回するべきか? これは非常な難問である。わたしはかつて、食事も忘れるほどこの問題を解くのに熱中したあげく、目を回して倒れたことがある。この事実は長いことわたしの個人史における汚点となっていた。同じような経験を持つ男が出現するまで。
その男の場合は、食事を終えるのを忘れるほど熱中したあげくに倒れたのであるが、わたしの起こした事故と同じくらい恥しい事故だと思う。わたしの汚点は彼の出現によって少なくとも二分の一の濃さに薄められた。
わたしたちはある日バス停で知り合ったのである。たまたま互いの問題意識の一致を知って意気投合したわたしたちは、その晩一緒に夕食を摂りながら《食事回数問題》を討議することにした。それが間違いだったのだ。
その夜の一連の事件についてここに書き記す勇気は、わたしにはない。それはわたしたちの個人史における共通にして最大の汚点となった一夜であった。ハンマー、コップ、黒コショウと並べたてれば、あるいはピンとこられる方もおられるであろう。しかし、それ以上のことは指が裂けても書けないのだ。
一応、その夜の結論だけ述べておしまいにしよう。《食事は一日に一度より少なくしてはならない》。恐るべき結論という他はない。
5 妻
妻は陸に棲む魚だと思う。わたしは何度か彼女にウロコがあるという事実を目撃したことがある。
夜のわたしたちは暗闇の中であいしあうから、互いの裸のからだを見ることもない。だが、時にカーテンのすきまから月の光がさしこんできてわたしたちのからだをほのかに照らすことだってある。そのとき、わたしは彼女のからだが緑色のウロコに覆われていることを知る。わたしは夢うつつの状態だから、彼女にとやかく尋ねるのもおっくうである。そこで、黙っていとなみを続ける。
そんなことのあった翌朝は、たいてい妻の方が早く起きて台所で朝食の仕度をしている。それも、たいていが魚料理ということになっている。これは、言わば暗黙の了解なのだ。
わたしの好物は煮魚の目玉である。
6 犬
わたしはそれが従順であろうと狂暴であろうと、とにかく、去勢された存在としての犬を嫌う。これは、なにもわたしがあの日犬に手首を食いちぎられそうになったからではない。確かにあのときは怒りと痛みにわれを忘れ、危うく犬に噛みつき返すところだったのだが。
わたしの犬嫌いは、ほとんど存在論的な嫌悪と言ってよいほどラジカルなものなのだ。
そこである日のこと、わたしは発作的に市長宛に懇願状を出した。《街じゅうの犬という犬を皆殺しにしてください。わたしの精神衛生上、それは不可欠なことなのです》。念のために言っておくと、手紙を出したのはわたしが犬に手首を食いちぎられた日の前日のことである。
それからちょうど二日後、すなわちわたしが犬に手首を食いちぎられてしまった翌日、街じゅうの犬が姿を消した。犬はどこにもいなくなっていた。野原にも、路地裏にも、街頭にも、犬小屋にも、ベッドの中にも。何という迅速な処置! わたしは生まれて初めて、市の執行部というものに敬意を感じた。
あの犬がわたしの手首を食ってしまったのは、ひょっとしたら犬どもの最後の抵抗の一つだったのかもしれないとわたしは思う。
そこで、わたしは今度は《街じゅうの市民という市民を皆殺しにしてください。わたしの精神衛生上、それは不可欠なことなのです》という手紙を出してみようかと思う。わたしは市民ではないから、生き残れるはずである。それとも、この考えは甘いであろうか。
7 紐を垂らした男
右の耳穴から細い紐を垂らした男が、わたしの前を歩いていた。二十センチほど垂れ下がった紐の端は小さな輪になっていて、《さあ、引っ張ってください》と言わんばかりだった。わたしはしばらくこらえていたものの、とうとうがまんしきれなくなってその輪を指にひっかけて紐を引っ張ってみた。すると、紐はするすると伸び始めた。見れば、耳の穴の奥から際限もなく出てくるようなのだ。男は振り向きもせず、平然としたようすで、歩調も乱さずに歩き続ける。わたしは夢中になって紐を引き出しながら彼の後に続く。その間隔は三メートル。歩道にロープで印をつけながらわたしたちは前進する、沈みつつある太陽の方向へ。しかし、五百メートルも歩かないうちに、紐は不意に途切れてしまった。男はそれから二、三歩歩いてから前向きに倒れ、そのまま動かなくなった。わたしは少しうろたえて、ロープの端っこ(それには《オワリ》と書かれた荷札がゆわえつけてある、当然。)を持ったまま、その場に立ちすくむ。行き交う人々は、わたしとすれちがいざま首だけをこっちの方にねじ曲げて、《ヒトゴロシ、ヒトゴロシ》とつぶやいてゆく。振り返れば、道に横たわる五百メートル近いロープの両側に何人かの子供たちが向かい合って並び、ジャンケンなどしている。
わたしはそのまま無為に紐の端をもてあそび、やがて夜がくる。
8 街
食堂街周辺に住む人びとは肥満し、共同墓地周辺に住む人びとはびらんし、商店街周辺に住む人びとは山のような買い物を抱えて身動きが取れず、歓楽街周辺に住む人びとは値札の付いた恋人を引きずりまわす。わたしの街は秩序と混沌の区別をもたない月並な街。
わたしの街の実物大の地図はわたしの街の地下に敷いてある一枚きりのものだから、観光地図屋の禿頭の主人の瞳はいつも悲しみに濁っている。売る地図の一枚ももたずに地図屋を経営してゆくことがどれほど困難なことなのか、わたしたち素人には想像することもできない。わたしたちにできることはひとつ。地図屋の主人から純白の未完成市街図を買って、代わりに同情を売ってやることだけだ。
洋装店のショーウィンドウには後ろ向きのマネキン群が立ち並び、求婚者の出現を待っている。求婚者の卵である若者たちは、おおむね職業安定所に就職している。というのは、そこが文字どおり最も安定した職場だから。
ポストも電信柱も月並なおしゃべりしかしない。なんという月並な街だろう。
わたしがこんなに月並な人間であるという理由は、これではっきりしたことと思う。
9 夢のお告げ
わたしは長いことわたしを追い求めてきた。それなのに、いまだにわたしの背中を見かけたことすらない。世の善良な人びとは、皆自分をつかまえて仲良くやっているというのに。全くこれはなんという悲劇であろう。わたしは涙なくしては笑えないくらい荒廃していた。トマトジュースに酔っぱらってはテレビにからみ、野菜サラダをむさぼり食っては一日一善にうつつをぬかす月並な毎日だった。
ある日のこと、夢の中に若い老婆(普通の魔法つかいか?)が現れて、わたしに沈黙のお告げをした。近くの松林の中に一本だけ梨の木が違和感もなく立っており、その根元にわたしが埋められているというのだ。
翌朝目を覚まして、私はスコップ片手に勇んで近くの松林に出かけた。確かにそこには一本だけ梨の木が混じって生えていた。松の木と全く変らない格好だったが、梨の木に違いなかった。こういったことは、まあ、公然の秘密というか、暗黙の了解に属することなのである。わたしはさっそくその木の根本を掘り始めた。
結局、出てきたものはわたしではなく、半ば白骨化した妻の絞殺死体だったので、わたしはがっかりした。だが、もともと大して期待していたわけでもなかったから、すぐに諦めはついた。所詮、《夢のお告げ》である。朝食をおいしく食べるために食前の軽い運動をしたのだと思えば、腹もたたない。わたしは掘り返した穴に再びていねいに土をかぶせてから、帰途についた。
そろそろ妻が朝食の仕度を済ませてわたしの帰りを待っている頃である。
10 手紙
わたしはあなたのことを知っている。あなた自身が知らないことまで含めて、全てを知っていると言ってもよい。あなたが市民ではないこと、それにもかかわらず通勤を職業とする月並な生活者であること、あなたには食事に関する暗い過去があるということ、犬嫌いで魚の目玉を愛する殺人者であること、うろこの生えた妻をある日絞殺することになっていること等等…それら全ての公然の秘密をわたしは暗黙のうちに了解している。なぜなら、わたしの仕事はあなたの無数の記憶を拾い集めることだからだ。そしてわたしはあなたに手紙を書く。思えば、わたしがかつて書いたあらゆる手紙は、全てあなたに宛てたものだと言えるのだ。あなたに向けて書いた手紙の宛名にわたしの名前を書いてしまうというようなことがたびたび起こるが、それは誤りでもなんでもない。あらゆる手紙はわたしに返ってくる。わたしたちは手紙の上でしか出合うこともない。あなたはわたしを捜し続けるだろうが、わたしたちは決して実際にまみえることはない。夢が透絵である限りは。
わたしはあなたのことを知っている。わたしはいるはずのない人。わたしはあなただ。