材料。《少女Lの日記――電気掃除機と心中した盲目の少女》。刈場有三編。洞譚社刊。内容。副題が示すように、少女L(匿名)が十七歳で電気掃除機と心中する(!)までの五年間に書き残した草稿(《二十数冊の大学ノートをわざわざ一ページずつバラバラにしたもの》に書きつけてある。《日付の類は全く記されておらず、内容も雑多》である。当然、点字で書かれている。)を、編者が一年半にわたる苦労の末まとめあげた本である。少女が死に至るまでに経験した《たくさんの恋》(実際にはその数二十六。)のエピソードならびに、彼女の奇妙な世界観が窺える百余りの断章より成る。                          (9/4)

 《ヴィサラ》という名の雌猫を相手に始まり、《EC-202》なる機番の電気掃除機を相手に終わるLの恋愛史を、その恋愛対象の所属から《生物期》および《無生物期》の二段階に分けることが可能である。注目すべき点。
 1 《生物期》の恋愛対象に、人間が選ばれたことが一度もないこと。
 2 《生物期》は、かなり長期にわたっている(約三年半と推定される。)にもかかわらず、対象の総数が少ないこと(動物四、植物四、計八。)。
 3 《生物期》から《無生物期》に移行するプロセス。
 4 《無生物期》における恋愛対象の変化の激しさ(その数十八におよぶ。)。
 5 少女の世界観と恋愛との関り合い。
 これらをどう解釈すべきか?            (9/5)

 1について考える。
 《人の視線には思い入れがつきまとっている》(P16)、《何よりも煩わしいことに、ヒトはコトバをもつ》(P39)
 あるいは、少女は過去に人間相手に恋愛したこともあるのかもしれない。この手記を書き始める以前に十二年間も生きてきたのだから。人並みの失恋の痛みも味わってきたことだろう。
 《人並みな苦痛のパターンを学習するには、十二年もあれば十分だったんじゃないかしら?》(P42)
 二度と《苦痛》を味わうまいとして、《思い入れ》や《コトバ》を持つ人間を相手にすることを止めたのか? それならば、手記に著された全ての恋を一方通行ゆえに苦痛を回避しうるナルシシズムのバリエーションとして、捉えることができる?
 僕はせっかちすぎるようだ。            (9/5)

 他人の視線に射られること。それがいたわりの視線であろうといたぶりの視線であろうと、いつも痛みであることに変りはない。                           (9/6)

 2について。
 少女は《ヒト》への愛は断念したものの、まだ《ぬくみ》を棄て去ることはできないのだ。――むき出しの針金で組み立てられたダッチ・マザーと、スポンジゴム・布地で組み立てられたダッチ・マザーを並べたとき赤ん坊ザルはやわらかくてあたたかい後者を選択する。接触欲求は本能的なものだ。
 猫の《ヴィサラ》を二階から放り落として殺しておきながら、その屍骸を完全に冷えきるまで抱きしめて泣くあたりは、確かに異常に見えるが、僕には理解できそうな気がする。     (9/7)

 《猫も犬も兎もあたしに慣れてしまう。それは堪えられないことだ。ヴィサラ、あたしがあいしたのはおまえのふさふさした毛並、それだけだったんだ。アイ、ビュルヴァ、尻尾なんか振ってくれなくてよかったんだ、あたしの望むときに『なめっこ』の相手をしてくれるだけでよかった。それだけでよかったのに! レティナ、あたしは好きであんたの長い耳をちょんぎったわけじゃないんだよ…》(P151)
 Lは愛することも、愛されることも望んでいないのだろうか? 彼女の求める《ぬくみ》とは単に物理的な《ぬくみ》に過ぎないのだろうか?                     (9/9)

 《火は真赤に燃えている。郵便ポストは赤い。真赤な血。火とポストと血が『赤』という色を共有しているなんて、あたしには想像もつかない。火は熱くて、恐ろしくて、かたちのないもの。ポストは冷たくて堅い。血はなまあたたかくて少し粘り気のある液体で、独特のすてきな臭いがする。この三つに一つでも共通した性質があるだろうか?(中略)とすると、『色』と『もの』の結びつきは全く恣意的なものなんだ。まあ、あたしにとっては、もともと『色』なんて無意味なんだけど。…火は真赤に燃えている。郵便ポストは赤い。真赤な血…》(P160)            (9/9)

 恋愛対象が動物から植物に移ってからは、《恋人》に固有名詞をつけることはしていない。サボテン、インドゴムノキ、サラセニア、デンドロビウム。いずれも熱帯植物なのは、彼ら(?)が、Lの家の温室で栽培されていたという理由による。
 《あたしがおまえに水をやりに近づくと、おまえは葉を揺らしてあたしを歓迎する》(P185)――ゴムノキ。
 《さあ、虫がやってきた。おまえに食べられるために》(P212)――サラセニア(食虫植物)。
 Lは植物に向かって話しかける。もちろん、彼らは答えはしない。Lは彼らを擬人化して表現することがあるが、本気で彼らを人間扱いしているとも思えない。
 《植物にも感情があるという学説があるそうだ。確かにあるかもしれない。そんな気がするときもある。…でも、別にそんなもの、あってもなくても構わない。いずれにせよ、あたしは彼らに恋することができる。でも》(P250)――この《でも》を最後に、Lの《植物期》は突然終わってしまう。
 《植物期》は短い(約一年)。《動物期》とは異なり、《恋人》は時間の経過に連れて変ってはいない。同時に四人(?)を相手にしている。                     (9/11)

 少女にとっての《恋》の意味が変質し続けていることは、対象が動物から植物へと変化している点だけ見ても明白である。具体的には接触欲求の消失、情動の減少。《恋》は次第に純粋な《観念》へと向かっているようだ。しかしどんな《観念》?    (9/12)

 《動物期》から《植物期》への変化は、考えてみれば非常に劇的な変化だと言える。まして《生物期》から《無生物期》への以降が劇的な変化と言えぬわけがない。それなのに、読んでいてショックが感じられないのはなぜか?
 少女の手記には明らかに欠落があるようだ。それは、《動物記》と《植物期》、《植物期》と《無生物期》をそれぞれ結びつける、継ぎ目の欠落である。そこに何らかのエピソードがあってしかるべきなのに、すっぽり抜けている。僕には彼女がわざとその部分を隠匿しているように思えてならない。しかし何のために? (9/13)

 《あたしの9番目の恋人はユーヴュラ。たくましいハンドルを具えた木製のコーヒーミル。今日もあたしは彼にコーヒー豆を食べさせてあげる。あたしたちは見たことのない虹の話をする》(P253)
 《無生物期》に入ってからのLは、以前よりも陽気で饒舌だ。
 《恋人》に再び名前をつけている。
 《恋》の意味はまたもや変質を遂げたようである。  (9/15)

 コーヒーミル、ティーポット、クラシックギター、花瓶、etc.…。Lは次々と恋人を変えてゆく。恋人の選択は全くの気紛れによっているらしい。だが、どの恋人にも共通点がある。それは、彼らがいずれも《空洞》を具えた存在であるという点だ。そして、Lはどの相手と《遊ぶ》場合も、主としてその《空洞》に物を詰める、という形式を取る。
 ここで、《空洞》を埋めるという行為に《象徴的な意味》を求めたくなるのが人情というものである。しかし、Lはこう言う。《ユータラス(筆者註・牛乳瓶の名前)のからだに毎日違った液体を注ぎこんでやるということに、何ら象徴的な意味はない。あたしは象徴なんてこぎれいな概念とは生まれつき無縁なのだ》(P286)                           (9/16)

 Lの《恋》はフェティシズムでもない。       (9/17)

 《EC-202とあたしはコードと手をつなぎあってポーチにすわる。あいびきの時刻はいつも午後三時》、《あたしたちはいつもの儀式を始める。くちびるを合わせ、息を吸い合うのだ。もちろん、肺活量では彼にかなう筈がない。あたしの内蔵は彼の内蔵の中へ引きずり込まれそうになる。あたしの内蔵は彼のおなかの中のゴミといっしょになろうとするあたしは気が遠くなりそうだ》(P303)
 春の日射し溢れるポーチで《電気掃除機》と戯れる少女――その光景を滑稽と呼ぶ勇気は僕にはない。滑稽どころか、ある種の美しさの極致ではないだろうか?             (9/19)

 少女が《電気掃除機》を心中の相手として選んだことに、どんな必然性があるというのだろう? Lは別に牛乳瓶と心中したって構わなかった。コーヒーミルと心中したって構わなかった。めちゃくちゃに破壊されたオブジェを包んだ紙袋をしっかり胸に抱きしめつつガス自殺を遂げることを、心中と呼べるのなら。
 問題は、なぜ彼女が《無生物》を死の道連れにしなければならなかったのかということだ。              (9/29)

 《幸福が虚構の中にしかありえないという至極当然の事実に目あきたちは気付かない。『見える』というのは『錯覚する』ことだ。連中は無意識のうちに生活の演技をしているから、幸福という概念も人生という舞台も虚構に過ぎないということに気付かない。気付いたとしても、たいていが手遅れだ。崩壊の感覚を味わわぬわけにはいかないだろうから》(P266)
 生まれつき盲であること――それは一生目が見えっぱなしでいることよりも、人生の途中で失明することよりも、遙かに幸福なことに違いない。
 《視線に対する風刺劇》として手記をとらえなおすこと。                             (9/22)

 《恋愛》の一般的な意味を《男女間の恋い慕う愛情。愛する異性と一体になろうとする愛情》(広辞苑による。)だとするならば、Lの《無生物期》における《恋愛》は《恋愛》の一つのパロディと言えるのではないか。すなわち、《ヒトとオブジェ間の恋い慕う愛情。愛するオブジェと一体になろうとする愛情》!
 《恋愛》の極限的なかたちを《心中》と仮定するなら、同じ図式はこのパロディとしての《恋愛》にも当てはまる。ヒトがオブジェの位置に至ること。それをオブジェとの《恋愛》の究極的なかたちとしてとらえるとき、《心中》と命名することに別に無理はない。
 ヒトとヒトとが心中したにせよ、ヒトとモノとが心中したにせよ、後に残されたものが二個のモノ(屍体と屍体、あるいは屍体とオブジェ)であることに変りはない。
 以上の仮説が正しいとすれば、少女は生命がけで《恋愛》のパロディを演じたことになる。しかし、どうして?     (9/24)

 《『苦』は『愛』の間にはさまれて『悪意』に変る》(P32)、《あたしたちは、一つの夢の見方としてものを愛する》(P146)
 示唆的な表現は、至る所に見出せる。それらの中から共通のコンテキストを抽出すること。そうすれば、欠落した《継ぎ目》のエピソードを推定することができるかもしれない。
 今少し時間が必要だ。               (9/25)

涙腺に沿ったイニシエイションを
花びらのように重ねて
僕たちの偽証の季節が巡る
悲しみに頭の腐った少年少女に
黒い花束を!
立ち止まる人・行き過ぎる人がふと思う
成熟とはなに?
問いも答えも表裏一体
病葉の姿で並木道に舞い落ちる
情緒のかけらは焚火にくべた
昨日の天気予報と
迷路の平面図だけを頼りに
オブジェとハネムーンしてごらん
あなたも楽しい終末を!
われらが水先案内人
電気掃除機と心中した少女は
道化としてのジャンヌ・ダルク
観客がいようといまいと
盲のやくどころで世界の視線を裏切り続ける
僕は架空のノミナリスト
黴だらけの真実の光に目がくらみ
冷めた闇の中で少女と見つめ合いたいと願う
だが 幸か不幸か
彼女は
少しも
存在
しない                      (9/26)