おぼえがき

はじめに
 通算8冊目の私的な作品集である。収められた諸作品は1975年の秋から1976年の春にかけて書かれた。

プレリュード
 レンアイはもちろんフェア・プレイの仮面を被ったファウル・プレイである。それは虚礼に満ちた遊び(プレイ)であり、完結を求めようとする芝居(プレイ)だ。真の意味での《愛》に至るためには、むしろ皮相的な演技と対極の相で同時進行する《深部のディスコミュニケイションの明確化→(負の)理解》というプロセスが重要なのではないか。最後に最も深いところでつながるためには涙を隠してせいぜい《laugh at love》するしかない。

コンデンス・ミルク
 奔流はコトバを巻き込みコンテキストを乱す。一つの流れを八つに分断したものがこの一連の作品であるが、やはり下流に向うにつれて流れは速くなり、砂礫の量も増しているようだ。流れの果ては《コンデンスミルクの懐》。

オウバード
 オウバードとは朝のセレナードのことである。
 アグレッシヴな思弁。

再来
 二つの《再来》の間のズレ。《訪問者》と《待つ者》の立場は単純に逆転してはいない。《訪問者》が再会すべき《待つ者》のイメージ・《待つ者》が再会すべき《訪問者》のイメージは確かに本来は一致していたのかもしれない。しかし、《旅》の間にすべては変容してしまうのだ。不変なものがなにひとつ存在しないことを知るのは《ドアー》を開けた後のことであろう。

ホッチポッチ・ランチ
 ホッチポッチ=ごった煮。ここでは特に駄洒落・語呂合わせ・地口が活躍する。詩集《再来》は対称的構造を成しているので、《ホッチポッチ》は《英雄伝説》のいわば兄弟に当たる訳だが、咀嚼された後者のストーリー(?)はごった煮の材料として前者の中に見え隠れしている。《ホッチポッチ》もまた奔流の様相を呈しており、次第に加速してゆく訳だが、この流れは《万能サイズ失語辞典》の出現によって突然せきとめられる。

遍歴 B
 ここでは詩との私的な対決が《積極的な》かたちで行われている。

モビル
 ダブル・モノローグ。対話のイミテーション。それは本来の対話への入口となる《意味》を見出すや否や宙吊りのまま静止してしまう。

インターリュード
 オートマティズムの反語的応用。

変遷
 《そして僕たちは生きている》はブリジット・フォンテーヌ《L'ete, l'ete》(夏、夏)のワン・フレーズ《et moi qui sui encore vivante》(そして私はまだ生きている)からヒントを得たフレーズ。

遍歴 A
 詩との《消極的な》対決であり、僕の遍歴の一つである。

英雄伝説
 ここで攻撃されるのは僕=作者自身である。僕の墓標の一つ。
 《絶対の隔離》はシャルウ・フーリエの唱えたシュールレアリスムの一つの重要な方法であり、ここではもちろんアイロニカルに用いられている。

セレナード
 アジテーションであると同時にアジテーションに対するアジテーションでもある。

ポストリュード
 ここでは《僕》が信じていた(或は信じたかった)《内語の歴史の正義》がぐらつき始めたことが重要である。《最後の意味が音をたてて燃えあがる》のは《僕》が独り残された時でしかない。これは一つの《終わり》であり、《愛》に向かうための《次の段階の始まり》なのかもしれない。
 なお、《ポストリュード》というコトバはおそらく僕の造語である。