「鳥の鳴く国」についての覚え書き

オーラス
 「あたしはあたしの悲観主義に対して楽観的なのよ。」おしゃべりルーシーは断言する。彼女の言葉はそのまま僕の言葉である。僕は黒い未来のことを楽しげに語りたい。できれば酒でも飲みながら。同時に黒い過去のことをみんな思い出して笑いの種にしてもみよう。
 すべてが沈んでしまう日…そのすばらしき日の到来に備えて僕はひきつらない笑い方を訓練しているのだ。

背理法
 完全に無意味な詩はありえない(無論、ここで「無意味にも無意味という意味がある。」といった詭弁を弄するつもりはない)。シュルレアリストたちの究極的な目的は無意味の王国を築きあげることにある訳だが、かつてその目的を果たし得た者はいない。と言うよりも、そういう者はあり得ないのだ。「無意味」が成就されたとき、それは既に詩とは言えないものだからである。カイヨワの言う「正しいイメージ」の概念を僕はおそるおそる支持したい。詩は意味と無意味の双者の呪縛の間でバランスを保つ綱渡りだ。「背理法」は危ういところでバランスを崩しかけて思わず足を早めている綱渡りかもしれない。


 ニューシネマ風の朝の情景を仮想してみた。不意に訪れた旧友に僕は驚きはしなかったが、彼の蒔いていったいくつかの悪い記憶の種子の成長ぶりには堪え難い思いがする。

嗜眠革命U〜V
 僕にとって「革命」という言葉は常にアイロニーである。この三篇は一見連作の形をとっているが、特に相互関係はない。
 Tはエルンストの「雨後のヨーロッパ」にインスパイアされたもの。Uでは僕はいろいろな時と場所を巡礼しているが、結局出発点に戻ってしまう。この作品の環状構造は後の作品の中にもしばしば姿を現す。ここで余談。僕は発作的に詩の力学的分類を思いついた。この方法によれば、詩はその運動状態から次の三つに分類される。すなわち、「循環する詩」、「発散する詩」、「収束する詩」。Uは「循環する詩」の一例である。だが、この分類は咄嗟に思いついたものだから、完全ではない。例えば「静止した詩」、「解体する詩」という概念も考えられるし……閑話休題。Vに於いては副題の「空転する朝」と「永遠にからまわりし続ける/嗜眠革命の夜が」という詩の末部との間のズレに注目して解釈してみるのも一つの方法である。もちろん、方法は一つだけとは限らないが。


 「戯れに」書いた詩の中で僕は野合の予行演習をしていた。文字通り「野」の中で。
 この作品だけは中学時代――十三才の頃だったか十四才の頃だったかはっきりしないが――に書いたものである。

あぐり
 いったい僕は一通りの解釈しか許されないものを詩と認めることができない。イメージのフレキシビリティが詩の成立条件の一つだと思っている。その点から見れば「あぐり」は詩として最も成功した一例かも知れない。例えば今咄嗟に思いついたのだが少女−絵本−影の三者の間の曖昧な関係一つとってみてもさまざまな解釈が考えられるであろう。(僕は突然「おばけ煙突」という言葉を連想したのだが。)

なわとび
 少女を扱った詩だけを集めた詩集(仮題・「少女解体」)をいつか出そうと思う。ただ、少女といっても僕は(ドジスン先生のように)七歳以下の少女にしか興味はないのである。それも無国籍な少女でなければいけない。
 「なわとび」の文体には後期の吉岡実の詩の影響が見られる。吉岡実は僕の最も愛する詩人の一人である。

時効・日曜日
 ここにも「少女」という言葉が出てくるが、本当は「少女」ではなく単なる「女」なのである。彼女との苦い交接の想い出は百パーセントの現実でもなければ百パーセントの夢でもないが、考えてみれば想い出というものはすべてそういうものなのではないか。


 手法的には明らかに藤富保男(この人の名前は二字まで僕の名前と一致している。)を意識している。Kは不定固有名詞(?)である。それは Joseph-K のK、karma のK、kingdom のK、或は Kazuo Fujimoto のKかもしれない。

椅子
 唐突に浮かんだ「椅子」という単語の故郷を求めて僕の旅は始まる。結局この旅は完結しなかった訳だが、それはあらゆる旅が宿命的に孕んでいる「目的の不確定性」に起因している。旅と共に旅の目的も旅する。そして形としての旅が放棄されるに至っても目的だけは暗い旅を続けるのだ。

多角解剖
 僕の詩は聴覚的だと思う。いかに視覚的な表現がとられていようと、実像が浮かんでくることは稀である。その原因はいろいろ考えられる。例えば作者の視座がめまぐるしく移動していること、作者が夢の技巧で詩を書いていること(夢の中ではディテールは常に逃亡を続ける性質がある)、エトセトラ。この詩も、「耳にしか見えぬ」虚像の断片から構成した夢のイミテーションである。

鳥の鳴く国
 「椅子」が予期せずして「作品形成過程の作品化」されたものだとするなら、「鳥の鳴く国」はある程度そうなることが予期された作品だと言える。ただし、これはあくまでも多くの見方のうちの一つにすぎない。
 「鳥の鳴く」という形容は、「東」の枕詞である「鳥の鳴く」からヒントを得たものである。僕にとっての「東」は言霊に覆われた暗黒の森林であり、僕が今でもその奥を彷徨い続けていることに変りはない。

(最後に)
 主観・客観が入り乱れてしまった。今後覚え書きを書くときにはどちらか一方に統一して書こうと思う。いずれにせよ、解説は読者の立場で書いてゆこう。